【ネタバレあり】政子が障子越しに盗み聞き?比企氏の乱(比企能員の変)

『吾妻鏡』における比企氏の乱の経緯と顛末は、以下の通りである。

 建仁3年(1203)7月20日、源頼家は急な病に罹かり、危険な状態に陥った。

 そこで、8月27日、頼家の嫡子・一幡に惣守護職と関東二十八ヶ国の地頭職を、頼家の弟・千幡に関西三十八ヶ国の地頭職を継承することが決った。当時、一幡は12歳、千幡は6歳であった。

 本来ならば、頼家の嫡子である一幡が、すべてを引き継いでもおかしくない。それにもかかわらず二分されたことに、一幡の外祖父である能員は反発し、千幡とその外戚たちを滅ぼそうと企んだ。

 9月2日、比企能員は娘の若狭局を通じて頼家に北条時政の追討をもちかけた。頼家は、病床に能員を招き、時政討伐の許可を与えている。

 ところが、この密談を北条政子が障子を隔てて聞いていた。政子は、父・時政に能員と頼家の陰謀を急報、時政は、薬師如来像供養を口実に能員を自邸に招き、暗殺した。

 能員の死の報せを受けた比企一族は、一幡の邸宅である小御所(こごしょ)に立て籠もった。しかし、政子の命令で押し寄せた幕府の大軍に攻められ、比企一族は一幡とともに滅亡した。

 9月日、頼家は奇跡的に回復し、一幡の死と比企一族の全滅を知った。頼家は激怒したが、伊豆の修善寺に幽閉され、翌元久元年(1204)7月18日、死去している。

 以上が『吾妻鏡』が語る比企の乱である。政子が障子越しに密談を耳にするなど、疑問を覚えた方も多いのではないだろうか。

 

「比企氏の乱」は「北条氏の乱」だったのか?

 天台座主・慈円の歴史書『愚管抄』では、「北条氏の乱」と称したくなるような、『吾妻鏡』とは違った比企氏の乱の様子が記されている。

『愚管抄』によれば、建仁3年に重い病気にかかった頼家は、出家して、一幡が源家のすべてを相続できるように家督譲与の準備を進めていた。

 ところが、北条時政は、家督譲与により能員が実権を握ろうとしていると聞き、頼朝も千幡をかわいがっていたので千幡が源家を継ぐべきと考えた。時政は能員を呼び寄せて謀殺し、一幡の家にも兵を送ったという。

 つまり、時政が能員の討伐を図ったというのだ。

 一幡は、母の若狹局が抱いて小門から脱出したが、他の一族はみな討ち殺された。

 なんとか逃げ延びた一幡も、11月に北条義時が探し出し、藤馬(とうま)という郎党に刺し殺されたという。

 比企の乱は、北条の乱であったのだろうか。