“何か” を求めて分かち合う
辻村氏は1947年奈良県御所市で生まれ、絵を描くことが好きで「絵かきになるなら」と東京藝大を目指したが大学受験に失敗。無作為に選んだ画家に弟子入りしようとしても上手くいかなかったことから、自己を追究しようと「禅」に興味を持った。
行脚修行に出たのち、「絵と向き合うことこそ修行」であると気づき、東京の鷹美術研究所に入所して油絵に力を注いだ。同じ研究者に陶芸に取り組む者もおり、東京目黒区にある日本民藝館で「大井戸茶碗」に出会った。辻村氏が作陶を始めるきっかけとなったよく知られるエピソードだ。
「ともかく自分が大井戸を見た時に感じたことしかおぼえていないのです。それはむしろ、茶碗というより、人間と相対しているような状態、大母性大慈悲心と向かい合っているようなこころもちになったとしか表現できません」(作品集:辻村史朗 より)
「あれは色カタチがどうっていうより、感動したんです。やってみたら茶碗が一番楽しかった。のめり込んでいったんです」
端正な顔立ちに日焼けした肌。どこか無邪気で崇高な「作家」たる風格のある現在の辻村氏には、浮世離れした雰囲気は微塵も感じさせない実直な「生きる」力強さが感じられる。力の源のひとつは、人並外れた制作力もさることながら、恐らく「作品を売る」ことへの意欲である。
「焼きものを始めてから最初の7年間は自分で売ってたんです。京都の南禅寺や三千院の前の露店です。そうすると”こういうのが好かれるんか” とわかる。とにかく家庭を支えるという思いでした。ひもじい思いをさせたらいかん、と」
東京で出会った妻三枝子さんと二人三脚で、1972年に奈良市中心から東寄りに位置する水間と呼ばれる人気のない山中を自ら切り開き、窯、茶室、家など全てを自分で建てた。そこを自宅兼工房とし、以降、50年変わっていない。
「道をつくるところから始めました。家も茶室もほとんど拾ってきたものでつくって、知り合いに手伝ってもらって。名前を知ってもらえるようになってからは“ここに住んでるんですか”、と言われるようなところなんです。何が幸せ、というのは人それぞれあると思います。息子たちは立派な家を建てました(笑)。自分はモノをつくる材料があれば幸せなんでしょうね。人間のうちなるものから発する“何か” と、ものをつくることから生まれる“何か”、この二つが自分の生きる上での根本。小屋をつくることも、絵を描くことも、焼き物をすることも、売りに行くことも全て、自分にとっては“何か”を探し続けることです」
工房兼自宅を構えてから、これまでに窯を10基ほどつくった。建てる場所の傾斜、窯の形状の違いによる変化を試すなど、飽くなき探求心はとどまることはなく、現在では「窯を完璧に使いこなす」とまで評されている。