日本とトルコの架け橋となった山田寅次郎

 最後にトプカプ宮殿ゆかりの日本人・ 山田寅次郎(1866~1957)をご紹介しよう。

 山田寅次郎は、明治時代に国交が樹立していないオスマン帝国に渡り、日本とトルコの友好の礎を築いた人物である。茶道家としても知られており、1923年(大正12)には、宗遍流第八世家元・山田宗有を襲名している。

山田寅次郎

 寅次郎がオスマン帝国へと旅立つきっかけとなったのは、1890年(明治23年)に起きた「エルトゥールル号事件」である。

 1887年、小松宮彰仁殿下及び同妃殿下が、オスマン帝国を公式訪問された 。それに対する答礼として、第34代皇帝アブデュル・ハミト2世は日本に、総勢650名の使節団を派遣している。彼らを乗せた軍艦が「エルトゥールル号」である。

 ところが、エルトゥールル号は帰国の途に就いた際に、紀州・串本沖で沈没し、581名もの乗組員が死亡するという大惨事に見舞われてしまう。

 山田寅次郎は、この「エルトゥールル号事件」の生存者と遺族を慰めるため、全国を駆け回って義捐金を集めた。その総額は、一説には現在の約3000万円に相当するという。

 寅次郎は義援金を手に、1892年(明治25)、イスタンブールに上陸した。寅次郎、26歳のときのことである。

 寅次郎は大歓迎され、オスマン皇帝アブデュル・ハミト2世に拝謁する機会にも恵まれた。拝謁の際に、寅次郎は父祖伝来の鎧、兜、陣太刀を献呈している。それらが陳列・保管されたのが、トプカプ宮殿である。

 寅次郎は皇帝から要請を受け、士官学校で士官たちに日本語を教えた。寅次郎に日本語を習った士官のなかには、のちにトルコ共和国の初代大統領となるムスタファ・ケマルもいたとも伝わる。

 その後も、幾度か一時的に帰国したものの、寅次郎は通算20年もの間イスタンブールに滞在した。

 その間、寅次郎は雑貨店を経営して日本・トルコ貿易の道を切り開いただけでなく、日本から訪れる要人たちの通訳や視察の案内や、トルコの要人への橋渡しや交渉などを快く引き受けたり、彼の自伝によれば、国際結婚した日本人の相談に乗ったり、金銭が底をついてしまった日本人たちを支援したりと、現在の大使館・総領事館が担うような役目を果たしている(松谷浩尚『イスタンブールを愛した人々』)

 帰国後も、日土貿易協会の設立や、在日トルコ大使に働きかけてエルトゥールル号遭難者の鎮魂碑の再建に尽力するなど、トルコとの交流に務めた。

 不穏な国際情勢の今だからこそ、異国との親善に人生の多くを捧げた山田寅次郎の功績を、胸に刻んでおきたいものである。