ハレムの惨劇
約70万平方メートルの広大な敷地を誇るトプカプ宮殿は、「外廷(ビルン)」、「内廷(エンデルン)」、「後宮(ハレム)」の3つの区域に分かれる。
外廷は政治の場で、内廷はスルタンの生活の場である。
3つの区域のなかで、最も興味をそそられるのは、ハレムであろう。
ハレムとは、スルタンの母后、寵妃、幼少の王子や王女および、これらの人々の世話やハレムと外部との連絡係を務める宦官が住まう場所である。
トプカプ宮殿のハレムは約400の部屋があり、女性の数は第12皇帝ムラト3世(在位1574~1595)の時代には千人にもおよんだという。
女性たちは奴隷市場で買われる、戦争で捕虜として連れてこられる、高官から献上されるなどしてハレムに入った。彼女たちは作法や学問、芸術を学んで教養を高め、スルタンに目通りされる日を待った。
嫉妬と陰謀の渦巻くハレムにおいて、彼女たちの夢は、母后(ヴァリデ・スルタン)の座にのぼりつめることだったという。
なぜなら、スルタンの王子を産み、その子が次のスルタンになれば、その女性は母后としてハレムを牛耳り、絶大な力を得ることができたからだ。
最も権勢を誇った母后は、第17代皇帝ムラト4世および、第18代皇帝イブラヒムの母にして、第19代皇帝メフメト4世の祖母であるキョセム(1589頃~1651)だといわれる。
キョセムはスルタンの「摂政(ナーイブ)」として政治の実権を握るなど、オスマン帝国史上、女性として最大の権力を手にし、「最も偉大な母后」と呼ばれた。
しかし、キョセムには悲惨な末路がまっていた。
キョセムは孫のメフメット4世の母トゥルハンとの壮絶な権力闘争の末に、1651年9月2日、トゥルハン派の宦官によって、ハレムで絞殺されたのだ。ハレムに君臨したキョセムは、その最期もハレムで迎えたのであった。
トプカプ宮殿の終焉
「オスマン帝国繁栄のシンボル」と称されたトプカプ宮殿だが、1654年に大宰相府(バーブ・アーリー)が宮殿から分離し、 行政の中心は宮殿から大宰相府へと移っていった。
政治の中枢ではなくなっても、トプカプ宮殿は宮廷の中心であり続けた。だが、1856年、第31代皇帝アブデュルメジド1世(在位1839~1861)の命によって建造されたドルマバフチェ宮殿が完成しスルタンが居を移すと、その役割を終えた。
1922年にはスルタン制が廃止され、オスマン帝国は滅亡。翌1923年に、トルコ共和国が成立する。
トプカプ宮殿は1924年4月3日、博物館として一般公開されるようになった。1985年には、「イスタンブール歴史地域」の一部として、世界遺産(文化遺産)に登録された。イスタンブールの観光の目玉として、現在も多くの観光客の心を捕らえている。