前編で紹介した高原健太郎さん(21)は、赤峰さんとの交流を次のように語る。

 「77歳なのだけれど、ふつうに会話が楽しい。赤峰さんは正直な反応をする。マインドが若く、興味の幅が広くて深い。完璧ではないところがあっても、恥じたりしないところがチャーミング」。

 場面ごとに異なる人格を演じることを推奨され、場を盛り上げるための「会話力」を磨けとせきたてる現代社会の薄っぺらい「コミュニケーション術」に、彼らはほとほと愛想がつきているのではないか。インターネットで手軽に情報が集まる時代だからこそ、人が人から学ぶことの厚みと豊かさに、彼らは手ごたえを感じているのだ。

筆者によるリモートインタビューの様子。特段勉強しているわけでもないが、最新アプリやデバイスを拒否することもなく、意外と器用に使いこなしている。赤峰さんの不変の哲学が若者たちに刺さった背景には、こうした柔軟さも確実に影響している

多様性よりもまずは、不変の「楷書」

 次に、価値の多様性という名のもとに何でもありになった時代にあって、不変の一つの価値基準を一徹に貫く、赤峰さんの優雅なる抵抗を挙げたい。

 弟子たちが共通して学んでいるのは、「日本人としてのきちんとしたあり方」というシンプルな、たった一つの価値基準である。

 赤峰さんはその価値基準についてこのように表現する。「クラシックな考え方。ファッションや暮らし方、生き方の『楷書』」と。

団塊ジュニア世代にとってはどこか懐かしさを感じさせる、「めだか荘」の応接室。無機質かつ画一的な住環境に慣れたZ世代にとっては、逆に新鮮なのかもしれない

 いまの20代は、好きなことはどんどんやっていいんだよと一見、自由な育てられ方をしてきた。だから彼らは屈託なく自由に生きているかといえば、実はそうでもない。社会に出ると、「楷書」を知らないことから生まれる混乱や根無し草的な不安が、かえって彼らを苦しめることになる。好きなことが何なのかもわからなくなる。自由な「崩し書き」に価値が生まれるのは、「楷書」をしっかり学んだあとなのだ。そんな厳然たる事実に彼ら自身が目覚めた。あいまいではない「楷書」を一から学ぶための師として、赤峰さんがぴたりと収まっている。

 価値観が多様になり、混迷する時代だからこそ、師が淡々と掲げ続けるクラシックな「楷書」が、彼らを導く松明として輝いて見えるのではあるまいか。

ファッション関連のみならず、歴史や映画、民俗などをテーマにした書籍が並ぶ赤峰さんの本棚