速く走って何がどうしたっていうんだ
映画のサルティは、恋人のエヴァ・マリー・セイントにパーティの夜、こんなことを話します。
「俺のくだらん人生は自分でもどうにもならん。なんてバカバカしいんだ。速く走って何がどうしたっていうんだ。ニーノは命がけでとったトロフィーにビールを注ぎ、スコットは走る前に薬漬けになっている。どう考えても異常だろう」
エヴァ・マリー・セイントがやさしく、しかし毅然と答えます。
「あなたたちは異常じゃないわ。10万人も見にきたわ。みんな、あなたと一緒にクルマに乗っているのよ。彼らにはできない夢を叶えているの。それを愚かだというの」
現実と架空が交差するのが、この映画のおもしろいところです。1967年、映画そのままに、白いホンダのF1カーはモンツァで優勝します。映画「グラン・プリ」のイタリアGPのゴール・シーンが、その1年後に現実世界で起きるのです。運転していたのはジョン・サーティースで、映画でサーティースを思わせるサルティの結末とは違っていますが、それはともかく、そのときのようすを、ホンダF1の監督だった中村良夫は、その著書『グランプリ』(二玄社)の第1巻にこう活写しています。
「最終ラップ,ピット前をジョンの真っ白いHondaが走り抜ける。満場の観衆がただただワアーワアーいうだけでなく,こちらも目を血走らせて最後のコーナー・クルヴェッタに白い車が先に現れるかそれともグリーンかを必死に見守る1分間の長かったこと。来た!! 白だ!! ジョンだ!! Hondaだ!!」
ジョン・サーティースは、スリップ・ストリームから抜け出て猛追するグリーンのブラバムに乗るジャック・ブラバムを振り切ってゴールに飛び込みます。その差、わずか2.5mでした。
現実を予言したかのような映画
「グラン・プリ」は現実を予言したかのような映画でした。2010年に日本で公開されたドキュメンタリー映画「アイルトン・セナ~音速の彼方へ」は、「グラン・プリ」以上にドラマチックです。主にテレビ中継の画像を再編集したこの作品もまた、モナコから始まり、最後はモンツァではなくて、イモラ・サーキットでしたが、イタリアでのグランプリで幕を閉じます。
1990年前後、日本ではF1が大ブームでした。ホンダがマクラーレンにエンジンを供給して連戦連勝し、バブル景気もあって、大いに盛り上がりました。1989年と1990年、鈴鹿では、セナとプロスト、ふたりの天才が、文字通りぶつかりました。プロストのファンもたくさんいました。でも、あれは、“音速の貴公子”アイルトン・セナのブームだった。ミハエル・シューマッハーや、現在のルイス・ハミルトンより、セナの人気はすごかった。セナのドライビングがアグレッシヴで豪快だったから、ではなくて、セナが男前だったからだと私は思います。
私はナマのセナを2回見たことがあります。1回目は初めてF1日本GPが開かれた1987年の鈴鹿です。セナは黄色いキャメル・カラーのロータスに乗っていて、ホンダがエンジンを供給する関係もあって、中嶋悟とコンビを組んでいました。「あれがセナだ」と、だれかが教えてくれて、私は初めてセナという天才ドライバーの存在を知りました。セナはタミヤのひとからもらったラジコン模型のロータスF1を楽しそうに走らせていました。無邪気な少年のようでした。
2回目は、岡山のTIサーキット英田(現・岡山国際サーキット)で1994年4月に開かれたパシフィック・グランプリでした。私はパドックを歩いていて、ドライバーの控室から出てきたセナをたまたま見かけたのです。控え室は階段の上にあって、セナが出てきた、とわかると、カメラをもったひとたちが階段の下に集まってきました。セナは階段を降りかけた途中にピタッと止まって、ちょっと憂いを帯びた遠い目をしながら、右、左、四方を見ました。カメラマンたちへのサービスです。ひととおりフラッシュがたかれたのを確認すると、セナはトントンと階段を降りて、たぶんピットのほうに向かいました。
カッコイイ!
「みんな、あなたと一緒にクルマに乗っているのよ。彼らにはできない夢を叶えているの」
というエヴァ・マリー・セイントのセリフがそっくりあてはまります。
映画「グラン・プリ」は現在のF1中継の基本となる映像を半世紀以上も前に先駆け、F1レースとレーシング・ドライバーに対する、基本的な見方を世界に教えたのです。登場人物があまりに類型的だという声もあるようです。でも、古典とはそういうものだと私は思います。