「金之助」の損な生い立ち

 漱石は慶応3年(1867)2月9日、牛込馬場下横町(現・新宿区喜久井町)に生まれます。この日は庚申の日で、生まれた子供は大いに出世するが、そうでなければ大泥棒になるという謂れがありました。その難を逃れるためには名前に「金」か「金編」の字をつけるとよい、ということで、「金之助」と名付けられます。

 父・夏目小兵衛(直克)は町方名主でした。漱石はその8番目の子供で五男。漱石が生まれた時、父は老境の50歳、母・ちえは41歳で、もはや母乳が出なくなっていました。いわゆる「恥かきっ子」の漱石は、夏目家には必要とされない子供だったのです。

 漱石が生まれる前日、内藤新宿北裏町(現・新宿区新宿2丁目)の門前名主・塩原昌之助という29歳の男が、自分には子供がいないから、生まれる子を養子にもらいたいと頼みに来ました。昌之助の妻・やすは夏目家に奉公に来ていたことのある女性です。

 名主とは町奉行や寺社奉行に所属する地区のまとめ役で、明治維新がなければ、漱石は塩原家で名主を継いでいたかもしれません。漱石が生まれた年の10月、徳川慶喜は大政奉還を表明し、明治と改元。江戸時代が終わったことによって名主制度も終わり、漱石の養父・昌之助は「添年寄」という役に就き、浅草三間町に引っ越します。

 しかしその浅草の家は、明治4年(1871)に近所の火事で類焼してしまい、一家は空き家になっていた内藤新宿の妓楼「伊豆橋」に住むことになります。

 同じ年、昌之助に収賄の容疑がかけられ、添年寄の役を免ぜられて失業。このような混乱の中、漱石は正式に塩原家の戸籍に登録されず、「長男」として届けられたのは明治5年(1872)、満5歳になってからでした。

 その間にも漱石にとって不幸な出来事がありました。4歳の時に受けた種痘がもとで、疱瘡に罹ります。その際にできた「あばた」を生涯気にしていて、小説家となってからの写真はすべて修整してもらっていたといいます。また5歳の時には廊下から庭に向かって小便をしていて転落、足を骨折したりもしています。この頃から「損」がだんだん溜まっていったのでした。