舞い戻った実家でも冷遇される

 失業の翌年、昌之助は東京第五区五小区(現・台東区駒形2丁目)の戸長となり、一家は再び浅草で暮らします。まもなくして昌之助が、ある未亡人と関係を持ったため、夫婦仲が悪くなり、ついには離婚。8歳の漱石は塩原の姓のまま、夏目家に戻ることになったのでした。

 舞い戻った実家で漱石は、高齢の実の父母を祖父母だと思い込んでいたといいます。そして、これまで養父母の手前、優しく漱石に接していた実父は、手のひらを返したように漱石に冷たく当たりました。

 実家にいても養父の家にいても居心地が悪かった漱石は、13歳くらいから落語に夢中になり、寄席に足繁く通うようになります。今でいうならゲームや漫画に熱中して現実を忘れるのと、同じことかもしれません。

 14歳の時に実母・ちえが亡くなります。そして「これからは英語の時代だ」といって漱石を応援してくれた長兄・大助も結核に罹り、漱石が20歳の時に亡くなります。

 大助には警視庁に勤めている樋口則義の長女・夏子と縁談がありましたが、これを断って警視庁の翻訳係をしながら漱石の学費を援助していました。夏子はのちの樋口一葉です。漱石は、一葉の義理の弟になる可能性があったのでした。

 長兄の死から3か月後、次兄・直則も肺結核で亡くなります。父・小兵衛(直克)は漱石に跡を取らせることも考えて、夏目家に漱石の籍を戻そうと塩原家と交渉しました。そして「7年間の養育費240円を返済すること。そのうち170円は即金、残りの70円は月3円ずつ無利息の月賦で毎月30日に支払うこと」という条件で、その話が決着します。

 しかし、このお金は父親が払ったのではありません。漱石が工面しなければならなかったのです。

 このような家庭環境が、若い漱石にのしかかっていたのでした。