豊臣秀吉が徳川家康を関東に移したのは左遷なのか? 江戸城の本丸に残る家康時代の石垣。戦国時代の江戸城は土造りだったが、家康はこの城を本格的な石垣造りの城に築き直していった。撮影/西股 総生(以下クレジットのないものは同) (画像1/7) 石垣山城から見た相模湾。豊臣秀吉が小田原攻めの本営として築いたのが石垣山城。秀吉は、このような景色を眺めながら、家康に関東への国替えを命じたのだろう。 (画像2/7) 家康は浜松城を本拠として東海地方に領地を広げ、豊臣秀吉と小牧・長久手で戦うことになる。写真の天守は第2次大戦後にコンクリートで造られたものだが、石垣は徳川家康時代の貴重なもの。 (画像3/7) 佐々成政像(Wikipediaより) (画像4/7) 蒲生氏郷像(Wikipediaより) (画像5/7) 山中城の西ノ丸。小田原攻めの緒戦で豊臣軍が猛攻を仕掛けて陥落させた。徳川軍は、この写真の奥から手前に向かって攻め寄せた。 (画像6/7) (画像7/7) 豊臣秀吉が徳川家康を関東に移したのは左遷なのか? この写真の記事を読む