二人はお互いをどう思っていた?

土佐光起筆『清少納言図』(部分)江戸時代・17世紀 東京国立博物館 出典:ColBase (https://colbase.nich.go.jp

 清少納言は、陽気で率直な性格で、無邪気に自分の才能や知識をひけらかすところがあったことが、『枕草子』から伺える。

 対して、紫式部は控えめで冷静。時には、真名(漢字)などまったく知らないように装った(角田文衞『紫式部伝――その生涯と『源氏物語』――』)。

 おそらく正反対の性格であったと思われる二人だが、お互いをどう思っていたのだろうか。

 紫式部が『紫式部日記』において、「清少納言こそ、したり顔にいみじうはべりける人」と、清少納言を辛辣に評したことは有名である。

『紫式部日記』は、清少納言が宮中を去ってから十年の月日を経て執筆されており、しかも、ドラマでは交流のある二人だが、紫式部は清少納言と会ったことはなかったと考えられている(福家俊幸『紫式部 女房たちの宮廷生活』)。

 それなのに、なぜ、紫式部は清少納言を酷評したのか。

 一説には、清少納言が『枕草子』において、紫式部の亡夫・佐々木蔵之介が演じた藤原宣孝に言及したからだともいわれている。

『枕草子』「あはれなるもの」には、御嶽詣には質素な浄衣で行くのが慣例だったが、宣孝は、「御嶽様は粗末な身なりで参詣せよとは仰らない」と言い、派手な色で着飾って参詣したというエピソードが語られている。

 だが、いまだに清少納言や『枕草子』は宮中の人々の心に残っており、紫式部はその存在を否定せざるを得ない状況であったともいわれる。

 あるいは、『枕草子』にみられる、陽気に艶やかに宮仕えを楽しんだ清少納言が羨ましかったのかもしれない。

 なお、清少納言は紫式部について、何も書き残していない。

 個人的な思惑はどうあれ、紫式部と清少納言はこれからも並び称され、語り継がれていくことだろう。