19世紀末フランスを代表する画家、アンリ・ド・トゥールーズ=ロートレック。個人コレクションとして世界最大級の規模を誇るフィロス・コレクションから約240点の作品・資料を公開する「フィロス・コレクション ロートレック展 時をつかむ線」がSOMPO美術館で開幕した。
文=川岸 徹 撮影=JBpress autograph編集部
開催が相次ぐロートレック展
偉大なアーティストには熱烈なファンとともにアンチが付き物だが、「ロートレックが嫌い」という話は聞いたことがない。ロートレックは一般のファンだけでなく、美術関係者や評論家筋にも受けがいい。しかもその人気と評価はここ数年、一段と高まっていると感じる。今年は「ロートレックとベル・エポック PARIS―1900年」展と「フィロス・コレクション ロートレック展 時をつかむ線」が全国を巡回。改修工事により⾧期休館中だった三菱一号館美術館も、11 月の再開館記念展のテーマにロートレックを選んでいる。
なぜ、いま、ロートレックなのか。東京・SOMPO美術館にて「フィロス・コレクション ロートレック展 時をつかむ線」が開幕したこの機に、ロートレックが愛される理由を考えてみたい。
貴族の長男として生まれたものの……
アンリ・ド・トゥールーズ=ロートレックは1864年、9世紀から続く南仏アルビの裕福な貴族の家に生まれた。待望の長男誕生に父親や親族から“Petit Bijou(小さな宝石)”と呼ばれて可愛がられたが、幸せな日は長く続かない。弟リシャールの死をきっかけに両親は離婚し、母親アデルとともにパリで生活するようになる。10代のときには事故により左右の大腿骨を骨折し、下半身の成長が止まってしまう。父親はこれに大きく失望し、ロートレックを疎ましく思い始めたという。
現代風に言えば、「当たりだった親ガチャが実はハズレだった」というところか。思春期に抱えた喪失感と疎外感。孤独を感じたロートレックはパリ・モンマルトルに通いつめ、やがて住み着くようになる。当時のモンマルトルは、キャバレやダンスホール、劇場、娼館が建ち並ぶパリ屈指の歓楽街。光と闇が交差する世界に、ロートレックは自分の居場所を見出した。
画塾に通い絵を学んでいたロートレックは、モンマルトルに集う人々を描くようになった。モンマルトルに住みついた作家や芸術家、新しい時代の空気を感じようと街を訪れる客人、そしてそこで働く人々。ロートレックの作品には、人気スターが数多く登場する。女性スターでは一世を風靡した歌手イヴェット・ギルベール、「ムーラン・ルージュ」のダンサーとしてお馴染みのラ・グーリュとジャヌ・アヴリル、「スカラ」を中心に活躍した歌手ポーラ・ブレビオン、男装で人気を博した芸人メアリー・ハミルトン、「ヴァリエテ座」のスター女優マルセル・ランデール……。
男性スターでは、歌手アリスティド・ブリュアンの名が筆頭に挙げられる。ロートレックとブリュアンは10歳以上年齢が離れていたが、お互いを無二の親友と認める仲。ブリュアンは小さなバーを経営しており、その伝手で彼はロートレックに「ムーラン・ルージュ」のポスター制作など、仕事をいくつか紹介したらしい。
2人の友情を示すこんな素敵なエピソードがある。ブリュアンが歌手としてそれほど売れていなかった頃、彼の元にモンマルトルのキャバレ「アンバサドゥール」から出演の依頼が届いた。待ちに待った大舞台。ブリュアンは友人であるロートレックに宣伝ポスターの制作を依頼したが、アンバサドゥールの支配人はポスターの仕上がりに失望。華やかさがなく、これでは客が集まらないと。だが、ブリュアンは「このポスターを使わなければ出演しない」と言い切った。
その後、ロートレックはブリュアンのためにポスターを作り続けた。ブリュアンをモデルにした3枚目のポスター《キャバレのアリスティド・ブリュアン》はロートレックの代表作。黒づくめの服装に、赤いマフラーが効いている。ちらっと背後を振り返る横顔には、スターの風格がただよう。ロートレックがブリュアンに抱いていた頼もしさが表れているようだ。