日本の洋食を世界へ伝えたい。未来を見据えた二代目の決断
『グリルにんじん』を訪ねてみると、大きな家が並ぶ静かな高級住宅街にポツンと建っている。今やSNSがあるが、当時はお客を呼ぶのは大変だったのではないだろうか。そのことを聞いてみると、
「今でこそ京都の洋食も注目されていますが、当時はフレンチ、イタリアンが全盛期の時代でしたから、こんな高級住宅街で洋食なんかやってもお客さんがこないんですよ。しかも豚汁をつけていたから庶民的というか……」
太地さんもすんなり店を継いだわけではなかったという。従業員が一斉にやめるという事件があって、しかたなく大学に通いながら店を手伝い、いったんは店を継ぐ決心をした。しかし厳しい職人の父とはそりが合わない。とうとう厨房で取っ組み合いのけんかまでする一触即発の状態に。そこで、自力で簿記の勉強し「座ってできる仕事で稼ぐ!」と就職してしまったのだとか。
そこから4年。一部上場企業で働くサラリーマンとなったが、母からの電話で父が店を閉めようと考えていることを知った。そこで一転、店を継ぐ決心をする。しかしあれだけのバトルを経験したのになんでまた? である。
「僕も親父と似ているんでしょうね、サラリーマンが合わなかった」と大笑い。
収入はいいが大企業の仕事はまるで自由度がなく、ちょうど人生を考え直そうとしていた時期だったという。
その後も波瀾万丈ではあったが、家業を受け継いで10年がたった。それを機に、「日本の洋食文化を京都から世界に広め、日本の食文化の未来に貢献する」という経営理念を立ち上げたという。次のステップへと目を向け始めたのだ。
やるべきことはあまりにも多いが、まず着手したのは、外国人に「洋食」という存在を知ってもらうことだという。
「明治の初期に西洋文化と共に入って来た西洋の料理を、日本人の口にあうように日本の調味料を使ってアレンジしたものが洋食なんです。本場ではパンを食べますが、日本の洋食ではご飯と合わせます。うちではランチでライスと豚汁を一緒に提供してきた。そうやって発展してきた料理だということを海外の人にも知ってもらいたいんです」
この大きな目標に向け、大学と連携して活動したこともあった。西洋料理とは似て非なる日本の洋食が、海外で受け入れられ、そして世界中から「京都に洋食を食べに行く」という日がいつか訪れるまで、太地さんの挑戦は終わらない。