娘・賢子

 宣孝と紫式部の間には、長保元年(999)、もしくは長保2年(1000)頃に、賢子(けんし)という女子が誕生している。系図類では、宣孝の娘はこの賢子のみである。

 賢子は長じると、母・紫式部と同じく、見上愛が演じる藤原彰子(藤原道長と黒木華が演じる源倫子の娘)に出仕し、親仁親王(のちの後冷泉天皇)の乳母に抜擢された。

 親仁親王が即位すると、従三位典侍に昇っている。

 また、玉置玲央が演じる藤原道兼の二男・藤原兼隆と結ばれ、万寿2年(1025)頃、娘を産んだとされる(角田文衞『紫式部伝——その生涯と『源氏物語』——』)。

 その後、高階成章と結婚して、夫・成章の役職「大宰大弐(だざいのだいに)」にちなんで、「大弐三位(だいにのさんみ)」と称された。

 賢子は女房三十六歌仙の一人に数えられる歌人で、家集に『藤三位集(大弐三位集)』がある。

 百人一首に選ばれた彼女の歌は、ご存じの方も多いだろう。

 有馬山 ゐなのささ原風吹けば いでそよ人を 忘れやはする

(有馬山に近くの猪名の笹原で風がそよそよと音をたてるように、私はけっしてあなたのことを忘れません)

 賢子の生没年は未詳だが、永保2年(1082)に83歳前後で没したともいわれる(服藤早苗 東海林亜矢子『紫式部を創った王朝人たち——家族、主・同僚、ライバル』所収 服藤早苗「第六章 夫藤原宣孝 ——異色を放つ夫」)。

 これが真実なら、当時としては、かなりの長寿をまっとうしたといえよう。

 宣孝はこの賢子の成長を見届けることなく、この世を去っている。

 

幼子を残しての死

 紫式部との結婚後、宣孝は長保元年(999)に豊前国宇佐神宮の奉幣使に発遣されたり、翌長保2年(1000)に平野臨時祭の勅使となったり、相撲の召合に武官として列席したり、殿上音楽にも出仕したりと、多忙な日々を送っていた。

 その所労なのか、『権記』長保3年(1001)2月5日条には、「痔病 、発動」したことが記されている。

 そして、同年4月25日に、宣孝は死去した。

 当時、流行していた疫病に罹患しての急逝ともいわれるが、「痔病、発動」の記述などから、内臓を患っていたとも推定されている。

 宣孝と紫式部との結婚生活は約2年半。宣孝が亡くなったとき、娘・賢子は数えで2歳、もしくは3歳くらいであった。

 紫式部が『源氏物語』の執筆をはじめた時期に関しては諸説あるが、宣孝の死が、その契機となったともいわれる(関幸彦『藤原道長と紫式部 「貴族道」と「女房」の平安王朝』)。

 今も愛される不朽の名作『源氏物語』には、宣孝との思い出も込められているのだろうか。