文=中井 治郎  写真=アフロ

京都府立植物園のけやき並木道

京都の穴場、府立植物園

 観光客もあらかた回復し、京都に以前のような賑わいが戻っている。祇園祭のニュースなどを見かけて、そろそろ久しぶりに京都に足を運んでみようかという人も多いだろう。

 そんな昨今なので「京都の穴場は?」と聞かれることも多い。しかし、そんなときに僕がお寺や神社を挙げることはまずない。もちろん個人的には寺社とのご縁もあるのだが、それらを穴場として来訪者に告げるのは、おそらく僕の仕事ではないだろうという妙な分業意識が自分の中にあるのだ。

 そして、しぶしぶ答えることになるのは、だいたいいつも新旧の個性的な喫茶店や宿、鴨川の河原や飛び石、そして、京都府立植物園である。

 京都府立植物園は1924年開園の日本最古の公立植物園である。日本最大級の規模を誇る巨大な温室を擁し、植物園としての「地力」となる植物の栽培、品種の保有・展示数も国内最高レベルである。また近年は年間70万人以上にものぼる入園者数は日本の公立植物園として最大である。しかし、それだけの人を飲み込んでも、総面積24ヘクタール(東京ドーム5個分以上)という広大な敷地にはいつも穏やかに澄んだ時間が流れている。

 なんだか「日本最古」とか「日本最大」など大仰な話ばかりしてしまったが、この植物園についてまず言っておかなくてはいけないことは、この時代にそこにあるのが奇跡のような場所であるということだ。最初に出会ったときから今でもあの不思議な空間への感慨は変わらない。少々陳腐な物言いになってしまうのが悔しいが、ほかに選ぶ言葉もない。「まるで天国のような場所」なのである。

 

「駅チカ」の森、植物園との出会い

 僕とこの不思議な植物園の出会いは、とあるマンションへ越して来たことだった。

 築年数はゆうに半世紀を超える物件。近ごろ流行りの言葉なら、ヴィンテージ・マンションとでもいうべきだろうか。今にして思えば、まるでお洒落な老婦人のようなマンションだったと思う。古びてはいるけれど、日々の清掃はもとより植え込みの植栽から各フロアのエレベーター前に飾られた花器まで、手入れはいつも隅々まで行き届いていた。

 はじめてその部屋に入ったのは、引越し先をさがしていたある秋の日のこと。地下鉄駅の出口を出たらすぐの物件。人気の老舗レストラン、ケーキ屋やパン屋などが軒を連ねる通りに面したマンションだった。大家さんに案内されてエレベーターで5階に上がり、年季の入った赤絨毯の廊下を通り抜けて室内に通されて驚いたのは、何よりその眺望であった。リビングの古い窓枠が額縁のように切り取っている景色は見渡すかぎり巨樹の森だったのである。

 大家さんは、屋上に上がれば大文字の送り火が5つも見えることを誇らしげに教えてくれたが、しかし、そんなことよりも僕はとつぜん目の前に出現した非現実的なパノラマに圧倒されるばかりであった。

 5階の窓から外を眺めると、目線の高さまで届く堂々たる木々の森が見えなくなるまで続いている。こんな壮大な「駅チカ物件」の眺望がこの世にあるものなのかとすっかり感動してしまって、この部屋で暮らすことを決めた。その森こそが、僕が京都で出会った最後の天国、京都府立植物園だったのである。