家康に過ぎたるもの

 忠真が言上したとおり、忠勝は、永禄6~7年(1563~1564)の三河一揆、元亀元年(1575)の姉川の戦いなどで武功を挙げ、家康の勢力拡大に貢献した。

 忠勝は元亀3年(1572)に起きた「一言坂(静岡県磐田市)の戦い」で、一躍その名を世に轟かせることになる。

 三方原合戦の前哨戦といわれるこの戦いで、忠勝は鹿の角を立てた兜を被り、家康を追撃する武田軍を相手に、身命を惜しまず、獅子奮迅の活躍をみせた。

 忠勝の奮闘は、武田方からも「家康に過ぎたるものが二つあり、唐の頭に本多平八」と歌に詠まれ、讃えられた。

 ちなみに唐の頭とは、珍重品とされるヤク(犛牛)の毛で飾った高価な兜である。唐の頭を被った武将が徳川勢にいたらしい。

 一言坂で名を高めた忠勝だが、三方原合戦で、徳川勢は阿部寛が演じた武田信玄に大敗、叔父の忠真も討死してしまった。

 祖父と父に続いて、叔父までもが戦場に散っていったが、忠勝はその後も戦い続ける。

 

花も実もある勇士

大多喜城 写真=アフロ

 忠勝は天正3年(1575)の長篠・設楽原の戦い、天正8年(1580)の高天神城の総攻撃、天正12年(1575)の小牧・長久手の戦い、天正18年(1590)の小田原北条氏攻めなど、数々の戦場を駆け抜けた。

 天正18年に徳川家が関東移封になると、忠勝は上総国大多喜(千葉県大多喜町)に十万石を与えられ、大名となった。忠勝、43歳のときのことである。

 慶長5年(1600)関ケ原の戦いには、次男の本多忠朝とともに参戦し、90余の首を獲ったという。

 この関ケ原の戦いが、忠勝の最後の戦いとなった。

 ドラマの忠勝は、流血していても「かすり傷一つ負っていない」と強がるが、新井白石が著した諸大名の家伝集『藩翰譜』には、「大小の戦い五七度、終に一度の不覚なし、終に一所の手も負はず」と記されており、この関ケ原の戦いまでの間、一度も戦傷を負ったことがなかったといわれる。

 織田信長は忠勝を「この者は花も実もある勇士である」と、家臣に紹介したという逸話も伝えられる。

 

忠節を守るを指して侍と曰ふ

本多忠勝像

 翌慶長6年(1601)、忠勝は伊勢桑名(三重県桑名市)十万石に転封となった。

 桑名で忠勝は、勇猛な武将から一転して、有能な統治者としての顔をみせる。

 近世城郭としての桑名城を築き、「慶長の町割」と称される徹底的な城下町の整備や、東海道の整備も行なった。

 現在の桑名の街並みの基礎を築いたのは、忠勝だとされる。

 この桑名の地で、忠勝は没した。慶長15年(1610)10月18日のことである。享年63、6歳年上の主君・家康よりも、6年早い死であった。

 最後に、有名な忠勝の遺書の一節をご紹介しよう。

 事の難に臨みて退かず、主君と枕を並べて討死を遂げ、忠節を守るを指して侍と曰ふ――

 討死はしなくても、生涯にわたって家康に忠誠を尽くしたといわれる忠勝は、まさに「侍」であった。