読む側の妄想も加味される笑い。トンデモ精神科医伊良部の17年ぶりの復活

『コメンテーター』
著者:奥田英朗
出版社:文藝春秋
発売日:2023年5月11日
価格:1,760円(税込)

 奥田英朗の『コメンテーター』は、トンデモ精神科医伊良部の17年ぶりの復活。サスペンデッドとなったシリーズ3作目『町長選挙』の年に生まれた子供はもう17歳かと思うと、あらためて年月の流れの早さに唖然とする。

 こういったお笑い系の小説は、理念型(人種差別反対とか死刑制度反対とか生殖は女性の基本的人権ではないのか、とか)で共感ポイントをピックアップできる作品と違って、これが好きと書いたとたん、自分の生理をさらけ出すようで実は恥ずかしい。それでもあえて書けば、私がいちばん大笑いしたのはシリーズ第二作で、直木賞受賞作となった『空中ブランコ』(2004年)の中の「義父のヅラ」。

 こういう失敗をするのではないかという怖れを持ったとたん、自分を支配するその恐怖から逃れようと、失敗をさっさと具現化してしまうということ、ないですか? いま書きながら突然思った。恋人達の一方が、相手に別れを切り出されそうだと察知して、自分から先に別れを切り出すというのも、似た行為かもしれない。

「義父のヅラ」の達郎は、母校医学部の教授の娘と結婚して順風満帆。しかし人知れずやむにやまれぬ衝動と闘っている、誰が見ても明らかで、本人だけが隠しおおせていると思っている義父のカツラを、見るたびに剥ぎたくなってしまうのだ。

 達郎に伊良部が施したのは、代償行為で破壊衝動を抑える治療。道路標識にペンキで「、」を打ちまくる。「金王神社前」は「金玉神社前」に、「東大前」は「東犬前」に、「王子税務署前」は「玉子税務署前」に。「大井一丁目」は横棒も加えて「天丼一丁目」に。最後は見事、本人に気づかれないまま義父のズラはがしに成功する。

 しかしここで私は邪推した。本当は中野にあった「警察大学校」に「、」を打ちたかったはずだ、と。きっと書いたはず。それを編集者に止められた。「奥田さん、警察を敵に回すのは、警察ミステリーを書く上の取材で得策ではないですよ」とかナントカ。

 それほどピンとこない「東犬前」は、差し替えだったに違いない(妄想です、はい、個人的妄想です)。

 結局のところ、笑いは読む側の妄想も加味されるのだと思う。金タマ神社もタマゴ税務署も、中国には及ばないまでも、至る所にカメラのある監視社会になった現在では、もうできないお茶目な荒療治。そう思うと、社会ってだんだんつまんなくなるんだなあと、感慨深い。

 新作『コメンテーター』でも、伊良部のハチャメチャぶりは、衰えを知らない。

 コロナ禍で、ユーチューバーの動画にも負けるような視聴率しか取れないディレクターが、視聴率至上主義のTVプロデューサーにドヤされ、美人精神科医枠で伊良部に紹介を頼む。ところが伊良部は自分が出演依頼されたと勘違い。

 ZOOM出演当日は、白衣に赤い蝶ネクタイという正体不明の姿で登場。路上飲みする若者の迷惑行為に、「仕方ないよね~。売ってるんだから。缶チューハイ1本1万円にしたら。買える若者は少ないんじゃない」とか「放水車で追い払う」などと、脱力コメントを連発。

 鬱症状を発症する人が多くなっているというコロナ鬱に関しては、“家の外にはゾンビがいっぱいいる。噛まれると自分もゾンビになる。そう思えばみんな家にいるんじゃない? もっとも全員がゾンビになれば怖くない。集団感染ってそういうことだからさ” と、これまた異次元コメントを放出。

 あげくにうちの病院では院内感染が出ただの、夜はロックバンドでギタリストをしているナースの「マユミちゃん」が三密ライブを決行し、発生したクラスターを病院に持ち帰っただの、良識ある人々が聞いたら卒倒しそうな内情をあっけらか~んと暴露。

 ところが視聴率は上昇した。プロデューサーは、伊良部の後ろで腰をクネクネ振りながら黒のレスポールをエア弾きしていた「チャンネエ(姉チャン)」が動画サイトで拡散され、10万回以上再生されているのを発見。「おい、伊良部先生をもう一回登場させろ、マユミちゃん込みだぞ」

 もう出演させるなと言っていたのに、気持ちいいほどの手の平返し。「昨日のことを持ち出すんじゃねえ、おれの頭は日々アップデートされてるんだよ」とドヤ顔になるのも(妄想上の)TVマンっぽい。

 笑いの出発点はよく知る紋切り型。ハイスピードのサスペンスやお笑いを書くとき、著者は人物にこれを注入するのが抜群に上手い。

 本書はこの表題作のほか、計5編を収録する。著者の名誉にために書き加えれば、伊良部の悪ノリには、稚気と言えばいいのか、どこか純真さがあって、“生きづらさ”をかかえた人々を優しく包む。

 公園に禁止のスケボーを持ち込む若者や優先席に座ってスマホをいじる若い女など、ルールを守らない奴を見ると怒りが湧く克己。優先席に座った若い女の尻を蹴飛ばしてホームに放り出す妄想を繰り広げるが、自分が過呼吸になって電車を降りる羽目に。アンがーマネージメントと称して、伊良部が克己に付けたインストラクターとは?(「ラジオ体操第2」)

 新卒で入った生保を2年で辞め、デイトレードでみるみる億単位のカネを溜めた地方出身の保彦。ネットの前にいないとパニック発作を起こすようになる。伊良部の誘導で六本木ガーデンの家賃150万円の部屋に引っ越し、姑息な理由をつけてかつての同僚を招くも、彼の視線は冷たい。伊良部とマユミによる“たかり治療”で、保彦が遂げた“変身”とは?(「うっかり億万長者」)

 ほかに広場恐怖症や社交不安障害など、現代ならでは症状が登場。水族館のアザラシを思わせる伊良部と、飼育係マユミのコンビが繰り広げるトンデモ行動療法、梅雨時の湿気を払って楽しいですよ。