往時は700社もあった東照社

上野東照宮 唐門

 徳川家康は自身の意思により、神として祀られるようになった。死の間際、家康は信頼する二人の僧侶と一人の側近を呼び、「自分が死んだら遺体は久能山に葬り、一周忌が過ぎたら日光の山内に小さな宮を建て、自分を神として祀るように」と告げたという。

 没後、家康の神号に関して、二人の僧侶の間で論争が起きた。京都南禅寺の塔頭、金地院の僧侶である以心崇伝は「大明神」を推したが、秀吉が「豊国大明神」という名の神になった後豊臣家が没落したことから、その号は縁起がよくないということになった。それにより、もうひとりの僧侶、天海僧正が推す「大権現」という神号が採用された。

 権現とは、古くから日本の宗教の主流をなしてきた神仏習合における神の称号で、仏教の仏が仮に神の姿で現れたという意味である。それに「大」の字がつく「大権現」は、仏としても神としても最高位ということを表すのであろう。

 かくして東照大権現となった徳川家康は、遺言に従ってまず久能山の東照社に祀られ、その後、二代将軍秀忠によって建てられた日光の東照社に祀られた。自身はさほど豪華な宮を望んでいたわけではなかったようだが、家康の威光をより強調し、徳川家の力を世に知らしめるためにはもっとビジュアルに訴えることが必要というわけで、三代将軍家光が陽明門をはじめとする華麗なる建造物を造立した。それが、今では世界中から観光客が押し寄せるようになった日光東照宮である。

 それを見て、徳川家に忠誠を誓う外様の大名などが、自らの所領にこぞって東照社を建てた。往時は700社もあったとされるが、現在、全国東照宮連合に加盟している著名な東照宮は47社。その中でも、ここ上野東照宮は、抜きん出た存在のひとつだ。

 社伝によれば、死の直前に家康本人から「自分の魂が永遠に鎮まるところを造って欲しい」と言われた天海僧正が、藤堂高虎の所領であった上野に東叡山寛永寺を建立。現在の上野公園にあたる広大な境内に、数々の堂宇が立ち並んだ。そこに建てられた東照社が現在の上野東照宮の始まりで、1646年には朝廷から宮号を授けられて東照宮となった。