サルトルとボーヴォワールさながらのカップル

 一方で、ギャラの安い国立民衆劇場(TNP)で、コルネイユの悲喜劇「ル・シッド」など古典劇の舞台に立ち続け、高く評価された実力派でもあり、仏芸術家・俳優組合(SFA)の委員長として「俳優は犬ではない」などと表明し、演劇界と映画界の待遇改善に力を尽くした硬派な社会運動家でもあった。

 一連の活動は、5歳年上の妻アンヌの存在あってのことだろう。子連れの再婚だった妻にGPは全幅の信頼を置き、作品選びをはじめ活動の全てを相談した。夫婦そろって核兵器禁止のデモ行進に参加し、共産党を支持。GPはある週刊誌の取材で「20世紀で最も重要な人物」は誰かを問われ、「レーニン」と答えてもいる。当時のフランスでは知識人が総じて共産党寄りだった背景もあるだろうが、2人はサルトルとボーヴォワールさながらのカップルでもあった。

 そのGPが、抑圧された民族を救うヒーローを描いた、仏・東独(当時)合作映画「ティル・オイレンシュピーゲルの冒険」(1956)で主演・監督・脚本を担当したことはあまり知られていない。ゆくゆくは演出・監督側に回りたいと考えていたGPが長年、準備していた企画だったが、興行的にも作品の評価も一般には受け入れられなかった。

ヌーベルバーグの台頭に焦り

 GPが過小評価されてきたとすれば、早逝により、1950年代後半から仏若手映画人の間で興ったヌーベルバーグ運動の陰に隠れてしまったからだろう。

 フランソワ・トリュフォー監督の「大人は判ってくれない」(1959)、ジャン・リュック・ゴダール監督の「勝手にしやがれ」(1960)など、一連のヌーベルバーグ作品には、ストーリーにとらわれず新しい映像表現を追求し、旧来の映画手法を打破する狙いがあった。そのせいかトリュフォーはGPを酷評。先述の「ティル・オイレンシュピーゲルの冒険」については、「今年の最もひどいフランス映画というだけでは足らず、最も退屈で、最もあくどい映画である」とこき下ろした(『ジェラール・フィリップ 最後の冬』から)。

 GPには焦りがあったようで、ヌーベルバーグの担い手の1人、ロジェ・ヴァディム監督の映画「危険な関係」(1959)に主演。舞台仲間で、やはりヌーベルバーグの担い手だったルイ・マル監督の「死刑台のエレベーター」(1958)に主演したジャンヌ・モローとの共演だった。だが、当時としては際どい性描写があり、仏当局が一時、海外輸出を禁じた問題作となる。

 GPは死の床で、今後の「リベンジ」に執念を燃やしていたことが本書では綴られる。1960年代以降も存命であったなら、ヌーベルバーグも違った展開になっていただろう。

病名は伏せられていた

 GPはカンヌの裕福な家に生まれ、演劇を志し、コンセルヴァトワール(音楽、舞踊、演劇などを学ぶ公立学校)に入学して演劇界と映画界への足掛かりをつかんだ。