「アラン・デュカス」ブランドを冠する日本酒『アラン・デュカス スパークリング サケ』は2021年春に完成した。それから1年あまり。パンデミックによる行動制限が緩んだ2022年秋、いよいよ、広くお披露目の時を迎え、パリ、モナコ、東京のアラン・デュカスのレストランで特別なペアリングイベントが開催された。
「ベージュ アラン・デュカス東京」でのイベントの直前、『アラン・デュカス スパークリング サケ』の造り手、山梨県白州地区の酒蔵「山梨銘醸」の社長、北原対馬さんと、その弟にして醸造家 北原亮庫さんにJBpress autographはインタビューした。
日本酒はなぜ時代遅れなのか?
「世界的に日本酒が注目されている」というのは耳障りのいい話ではあるし、事実ではある一方、経営的に順調な酒蔵は多くない、という事実は見落とされがちだ。日本酒は、産業としてはもう長いこと、苦境に立たされている。
「変化は1970年ごろから始まっていたんです。1973年を100とすると現在の日本酒市場は25以下です」
『七賢(しちけん)』ブランドを展開する「山梨銘醸」の13代目当主 北原対馬さんがそう教えてくれた。
「日本における酒が、日本酒しかない時代から、インターナショナルな時代になり選択が多様化しはじめたのが1970年代です。1980年代になると経済成長で「24時間、働けますか?」の時代でしたよね。男性は家にいなくなって、外で飲むのが普通になりました」
酒の選択肢が増えるなか、いわゆる晩酌文化も消失した。
「最近でいうと、携帯の普及も結構大きいとおもうんですよね。お酒の席じゃないと言えないことって、あったとおもうんです。でもいまは、それ、携帯で言えちゃうじゃないですか」
危機はチャンスでもあったのではないか?と対馬さんは問う。たとえば、海外の酒が日本に入ってくる危機は、一方で、日本酒が国外に出るチャンスだったのではないか?
しかし、現状を見れば、世の中の変化に応じて攻勢に出ることはなかった。あるいは、それに失敗した、と言わざるを得ないだろう。
対馬さんの弟、亮庫さんは、醸造家の観点から、こう描く──
「うちの建物は1800年代のものがいまも残っていますが、醸造所のベースは50年ほど前に、うちの祖父が建てたものです。50年前っていうのは日本酒市場がまだ伸びている時代です。つまり増産を目的とした設計だったんです。最大生産量1万石(1石≒180リットル)の設計でした」
ところが、北原対馬、亮庫兄弟が山梨銘醸に揃った2008年、山梨銘醸の生産量はわずか1700石程度だった。
「そこで、投資をしたんです」
と対馬さんが言う。
「最大生産量は4000石。代わりに質は妥協しない。そういう酒蔵にしました。私たちの受け取ったバトンを14代目、15代目に繋いでいくためには、それをやって、『七賢』を高付加価値化するとともに、国際化するしかない」
1万石設計の蔵で1700石造る、というのは、言ってしまえば、10トントラックでF1を走るようなもの。これを、亮庫さんがコーナリングを限界まで詰められるマシンへと作り変えた、とでも言おうか。それくらいの大変化をもたらした。投資額はかなり大きかったようで……
「おそらくなのですがワイナリーって何千万円規模で始められますよね? 日本酒って、醸造設備のほかに、米を洗う、研ぐ、蒸す、麹を作る、という設備が必要で、0からやれば10億円くらいの規模なんですよ」
山梨銘醸は0からのスタートではないとはいえ、北原兄弟は莫大な投資をして、もう後ろには下がれない勝負を仕掛けた。
「というと、派手に聞こえますが、やることは地味ですよ。商売にウルトラCはないですから。ロードマップをつくり、細かくマイルストーンを置いて、PDCAをまわしていく。ひとつひとつ、小さな目標をクリアしていく。ここを感覚でやっちゃったら、中小企業はうまくいなかない、と私はおもっています」
地道な努力は、生産量3500石という現在を生んでいる。