フィギュアから音楽業界への「ジャンル間転送」
音楽へのリスペクト、著作権などの知識の習得など、誠実な使用を前提とした上で、町田は言う。
「一方でまた、フィギュアスケートが音楽に貢献していることもあります。2018年に発表した論文でも書きましたが、『ジャンル間転送』と名付けた現象です。つまり、フィギュアスケートを観たことがきっかけで、観客が演奏CDを買ってみるとか、オーケストラのコンサートに行ってみるといった副次的な消費行動がかなりある。フィギュアスケートもまた音楽業界に対して相当な経済効果をもたらしていることを研究で突き止めました。
つまり、フィギュアスケートは音楽に依存しているだけでなく、音楽業界に対しても多少なりとも貢献していることもあるわけです。演技のアーカイブという点に関してもっと話し合いをしていくべきですし、私は切に音楽業界と話をしたいなと思っています。舞踊やアーティスティックスポーツの発展のための権利処理ということであれば、ご理解いただきたいという思いはあります」
映像の権利関係においてはスケーターの存在の希薄さがどこかにあるように思える。そして音楽関係においては、決して一方向ではなく、互いに享受する関係にある面は否定できない。それらを思えば、スケーターが利用するにあたって、アーカイブするにあたって、あまりにも高い壁がそびえる現実を、それぞれの権利を侵すことなく変えていく道はあるはずだ。
あらためて、アーカイブの重要性、何よりも演技映像が残される意味を語る。
「今はオンデマンドや動画投稿サイトなど、いろいろな方法で映像を発信するメディアがあります。その点では企業努力をされていて、例えば全日本選手権の場合は、出場するスケーターの映像を観られるようになっています。それは素晴らしいことですから続けてほしいです。
私の時代は転換点で、地上波で上位グループだけが放送されている頃でしたから、私の演技映像が放送されたのは、競技生活の最後のほうだけです。アーカイブは残っていません。選手時代の私は、演技を観返すこともなく気にしていませんでしたが、今の選手は映像を観て、ジャンプをもっとうまく跳ぶ方策を考えたり、失敗の原因などを分析しています。演技映像は、鑑賞だけでなく、スケーター育成の観点からも大事ですから、的確に選手のもとに届けられるようになってほしい。
すでにお話したことに関連しますが、過去の作品をいつでもどこでも誰もが観返せる、そういう環境が今よりよい作品を創造するうえで大事です。フィギュアスケートはスポーツという側面もあるので、どうしても過去より未来の方が素晴らしいという価値観、すなわち進歩史観でものを見る傾向にあります。
ジャンプの回転数などの競技的側面はそうかもしれないけれども、演技の芸術性に関しては、そんなことはないのですね。70年代の作品を観て、こんな面白い動きを取り入れていたのかとか、今ではこの動き方をする人は誰もいないというような、斬新な振り付けが行われていたりします。
そんなインスピレーションをもたらしてくれる作品が過去にたくさんあるので、本当にアーカイブが大事だなと思います。また、現在でも振付師の人数もものすごく少ないですよね。その人たちだけで数千人の演技の創作を担っている状況です。私だったら一瞬でクリエイティビティは枯渇します。そのクリエイティビティの泉を豊かなものにするには、やはりアーカイブをたどることが大事だと思うんですよね」
数々の作品を埋もれたままにしない。それはそれらの作品を大切にすることでもある。そして数々の作品が、より豊かなフィギュアスケートの未来を形作る土壌となる。
「アーカイブ」の重要性を知らしめた町田の思いはきっと、ジャンルを超えて広がっていくはずだ。
町田樹(まちだたつき)
スポーツ科学研究者、元フィギュアスケーター。2014年ソチ五輪5位、同年世界選手権銀メダル。同年12月に引退後、プロフィギュアスケーターとして活躍。2020年10月、國學院大學人間開発学部助教に。研究活動と並行して、解説、コラム執筆など幅広く活動する。スポーツを研究者の視点で捉えるJ SPORTS放送『町田樹のスポーツアカデミア』では企画・構成・出演を担う。著書に『アーティスティックスポーツ研究序説』(白水社)『若きアスリートへの手紙――〈競技する身体〉の哲学』(山と溪谷社)。