【ネタバレあり】和田義盛vs.北条義時の対決の行方は?
頼朝が没し、二代将軍・源頼家の時代となると、義盛は十三人の合議制の一人に選ばれた。
三代将軍・源実朝とも良好な関係だったという。
一方、北条氏は元久2年(1205)の「牧氏の変」により、北条時政が失脚した。『吾妻鏡』同年閨7月20条によれば、時政は伊豆国に下り、義時は「執権」を承ったという。
北条義時は、財政および訴訟を管轄した「政所」の別当にも就任し、御家人筆頭として幕政を運営していたが、義盛は北条氏に並ぶ有力御家人であった。
だが、建暦3年(1213)5月の和田合戦で、義盛は和田一族とともに滅亡する。
和田合戦とは、和田義盛らと、北条義時らの幕府軍が、鎌倉を舞台に全面衝突した合戦だ。鎌倉初の本格的な市街戦としても知られる。
和田合戦の発端は、同年2月15日に発覚した「泉親衡(親平)の乱」である。
泉親衡という信濃の武士が、二代将軍・源頼家の遺児を擁して、北条義時を討つという謀反計画を建てた。それは主要参加者130人余、協力者200人にもおよぶ、大規模なものであった。捕らえられた者の中には、義盛の子・和田義直と義重、甥の和田胤長もいた。
重盛は将軍・実朝に、二人の息子と甥の赦免を求めた。実朝は、これまでの重盛の功績に免じて、息子二人を釈放したが、胤長の赦免は拒否した。
これに乗じて、北条義時は重盛を挑発した。後ろ手に縛った胤長を、列座する和田一族の前を歩かせたうえで、流罪としたのだ。『吾妻鏡』は、義盛が逆心を抱いた動機は、これにあるとしている。
和田と北条の確執は進み、同年5月2日、義盛は150騎で兵を挙げた。和田合戦の始まりである。侍所別当・和田義盛67歳、執権・北条義時51歳のときのことである。
義盛ら和田方は、御所を包囲して将軍・実朝の身柄を確保し、実朝を擁立して戦う計画であったようだが、失敗する。義盛の従兄弟の三浦義村が寝返り、北条義時に義盛の攻撃を知らせたからだ。
義盛の計画は完全に狂った。それでも、和田方の軍勢は御所に攻め入り、焼き尽くすとなど奮戦した。特に、義盛の三男・朝比奈(朝夷名)義秀は、彼と戦って死を免れた者はいないと言われるほどの剛勇無双ぶりを発揮した。
2日間にわたって、激しい戦闘が繰り返された。和田勢は援軍を得て盛り返すも、義盛をはじめ主だった武将たちはことごとく討死し——和田合戦は幕を下ろした。
翌5月4日に、晒された和田勢の首は234にもおよび、幕府軍の主だった死者は50人、負傷者は千人にものぼったという。
和田義盛の死により、北条義時が侍所別当に就任し、政所別当と兼ねることになった。これをもって、「執権」職が確立したともいわれる。