時政と牧の方は多くの子宝に恵まれているが、牧の方は人脈を駆使して、娘たちを京都の貴族と結婚させている。牧の方をきっかけに繋がった京と北条氏の縁は、政治家としての時政を支える力になったであろう。

 ドラマでは年の離れた夫妻として描かれている時政と牧の方だが、実際にはどうだったのだろうか。

 牧の方は生没年不詳のため、正確な年齢差はわからない。

 だが、天台座主・慈円が著した鎌倉前期の歴史書『愚管抄』にも「時政は若い妻をえて」とわざわざ記されており、おそらく、かなり年の差があったのだろう。時政の娘・政子よりも、年下の可能性もあるという。

 二人の結婚の時期は、治承4年(1180)の頼朝の挙兵以後とする説、挙兵以前とする説となど諸説あるが、時政と牧の方の息子・北条政範が文治5年(1189)に誕生しているので、少なくとも、これ以前だろう。

 また、歴史学者の細川重男氏は、著作『執権』のなかで、大変に興味深い推測を述べている。

 時政には、宗時という嫡子がいた。ドラマでは片岡愛之助が演じていた、義時の兄である。

 細川氏は、牧氏の通字が「宗」であることから、宗時の烏帽子親は、牧宗親だったのではないか。

 くわえて、時政は牧の方を宗時の妻にしようと思っていたが、宗時は石橋山合戦で戦死してしまった(ドラマでは善児による暗殺)。そこで、時政は牧の方を自分の妻に迎えたのではないだろうか――としている。

 もしも、牧の方が宗時の妻になっていたら、時政や北条氏の運命はどう変っていたのだろうか。

牧の方は時政に添い遂げた?

 時政は頼朝の死後、ライバルの比企一族を滅亡させて、孫にあたる三代将軍・源実朝の後見役として、幕府の実権を握った。

 しかし、元久2年(1205)、時政は失脚することになる。

 時政と牧の方は実朝を廃し、娘婿の平賀朝雅を将軍にしようと企てたが、政子と義時に阻止されてしまう。時政は急遽、出家して、同年閨7月19日、伊豆国北条に下り、隠棲した。『吾妻鏡』では時政が自ら鎌倉を去ったかのように描かれているが、実際は力ずくでの幽閉であったようだ。

 牧の方も、時政とともに伊豆に下ったと考えられている。

 時政は幕政に返り咲くことはないまま、建保3年(1215)正月6日、北条の地で生涯を終えた。

北條寺の彼岸花 写真=PIXTA

 牧の方は時政の没後、娘の再婚先を頼って上洛したという。

 隠棲させられた時政が、何を考え、どう過ごしたのか明らかでないが、故郷の地で愛する牧の方と穏やかに暮らせたのだとしたら、鎌倉で権力抗争に明け暮れた日々よりも、幸せだったのかもしれない。