北条時政ゆかりの地
●北條寺
北条義時が創建。時政や政子も信仰したと伝わる。北条氏ゆかりの木造観世音菩薩座像、木造阿弥陀如来像、牡丹鳥獣文繍帳(いずれも静岡県指定文化財)を所蔵。義時夫妻の墓も建つ。
小さな黄色い花を咲かす蝋梅(ロウバイ)と、白いヒガンバナの名所としても有名。
●北条氏邸跡(円成寺跡)
時政らが暮らした北条氏の館と、鎌倉幕府滅亡後、館の跡地に建てられた円成寺の遺跡である。平成8年(1996)に国指定史跡となった。
円成寺については説明が必要だろう。
元弘2年(1333)に鎌倉幕府は滅亡し、北条一族の多くが戦死や自刃を遂げた。
第九代執権・北条貞時の妻にして、第十四代執権・北条高時の母である円成尼(えんじょうに)は、残された一族の妻や娘たちを率いて、北条氏の故郷である伊豆韮山に移り住んだ。円成尼は一族の菩提を弔うため、北条氏の邸宅跡に寺院を建立した。それが、円成寺であり、江戸時代まで続いたという。
鎌倉時代の建物跡や井戸が発見され、舶載(輸入)陶磁器や大量の「かわらけ(素焼きの皿)」などが出土されている。
●願成就院
時政が建立した北条家の氏寺。
『吾妻鏡』文治5年(1189)6月6日条によると、時政は源頼朝の奥州討伐の祈願のため、先祖ゆかりの地である田方郡北条の地に、寺院建設を企図したという。境内には、時政の墓もある。
願成就院では、嘉禎2年(1236)には義時の長子・北条泰時によって、義時の十三回忌供養が行われた。『吾妻鏡』に北条の地に関する記事がみえるのは、これが最後である。北条氏の拠点は、本格的に伊豆から鎌倉に移ったのだ。
時政の十三回忌供養は、嘉禄3年(1227)正月23日、牧の方によって、五女の夫・藤原国通の有栖川邸において執り行われている。
供養には、宇都宮頼綱に嫁いだ牧の方の八女と、その娘(冷泉為家の妻)のほか、冷泉為家ら公卿6人、殿上人、諸大夫らが40人近くも出席した。このとき、牧の方は60代と推定されるが、依然として広い人脈を持ち続けていたことがうかがえる。
27日には、牧の方は八女と孫娘らを引率して、天王寺や南都七大寺、長谷の参詣に出発している。
年齢を重ねてもパワフルな牧の方の姿は、時政を喜ばせ、何より供養になったのではないだろうか。