SDGsギャングに
騙されるな!
──さっきからちょくちょく話題にのぼるSDGsについては、どのように考えていますか?
新谷 本当に太陽光や風力だけで今の電力消費を賄えるのか、原発を稼働させなくていいのか、ということを本当に考えないといけない時期だと思います。これからきっと電気料金はどんどん上がっていくし、CO2排出を懸念して火力を止めれば、当然停電リスクも生じてくるわけで。
藤原 『北の国から』みたいに、「夜になったら寝るんです!」の世界ですね(笑)。僕はSDGsに関しては反対じゃないですが、行き過ぎると何事も矛盾にぶつかりますから。最近はビジネス的なうまみも出てきているから、SDGsギャングが多くて大変ですよ。
──SDGsギャング!
藤原 今パッと出てきた言葉なんですけど(笑)。
新谷 太陽光をやると補助金がドバッと出るみたいな、詐欺まがいの話が山ほどありますからね。私はとあるシンポジウムに出たときに同じ質問をされたので、「SDGs自体は大事なことだけれど、そこにゼニの匂いを感じて金儲けしようとするまがいものが多いので、それらを見極めて片っぱしから撃ち落とすのが『文春』の仕事です」と言いました。
藤原 すごいですね。
──藤原さんのもとにも、そういう仕事の依頼は来るんですか?
藤原 こういう素材を使ってものをつくって、という依頼は多いけれど、国によって基準が違うからややこしいんですよね。
新谷 ただ、極論に走るのはどうしてもなじめないですね。ウールまでやめちゃうとか。
藤原 真面目になればなるほど、連合赤軍といっしょで後戻りできなくなりますよね。
新谷 地球っていずれにせよ、50億年くらいでなくなるわけですよね。だからその健康寿命をどれだけ保つか考えるときに、果たして延命装置まで付けるべきなのか、ということですよね。「カルペディエム(1日の花を摘め)」という言葉のように、たまには美味しいものやお洒落な服といった自分へのご褒美もあげながら、楽しい人生を過ごす。延命することだけを目的にしたら、生きていても甲斐がないですから。
藤原 〝次の世代のために〟ってよく言いますが、次の世代は次の世代で考えるし、それはある意味彼らの権利でもあると思うんですよ。僕らよりもずっと賢いんだから、そんなこと言うなんておこがましいよ、というほどのものになってほしいですね。
新谷 なかなか壮大なテーマになってきましたね(笑)。
『文藝春秋』と藤原ヒロシの
コラボレーションは実現するか?
──2022年はどんな年になりそうですか?
藤原 どうでしょう。僕は今の生活に満足していて、海外に行きたいとかいう思いはないですね。だからコロナウィルス次第で世の中は変わるんでしょうが、僕のスタンスは変わらないですね。でも、『文藝春秋』とはなにかやってみたいです。
新谷 私はこういうメディアをご覧になっている皆さんの間で、『文藝春秋』を小脇に抱えているのがお洒落、みたいなムーブメントを起こしたいな。
立木義浩 いっそのこと、そのままポーチにしちゃったら(笑)?
新谷 さすが巨匠・立木さん。それもいいですね(笑)。
藤原 さっきお話しした、ニューヨークの日曜のカフェみたいな感じですね。たとえば何ヶ月かに1回、表紙やサイズすら変えちゃって、特別な号をつくるとか、できないですか? もちろんロゴは変えずに、面白かった記事をより抜いたベスト・オブ文藝春秋に、新しい記事もプラスして。
新谷 なるほど、それは面白い。もちろん藤原ヒロシのキュレーションでね。やっぱりそういう自由さがないと、雑誌は面白くないですから。ではさっそくこの号もご覧になってください。「ヤクザと運動家、二つの顔を持つ男」という記事なんですが……。
──やっぱり2022年もパンクと任侠は続くわけですね!
藤原 でも今日は天皇制認めちゃったからな(笑)。
新谷 「衝撃告白! 藤原ヒロシ、天皇制を支持」。文春的には一本記事がつくれますね(笑)。
藤原 天皇制は認めても、国旗が見える仕事はしませんよ。
新谷 国旗が変わればOKなんですか?
藤原 ナシですね。でも、ユニオンジャックならいいかもね(笑)。
新谷 女王陛下のためならひと肌脱ぎます、みたいな(笑)。
しんたに・まなぶ(編集者)
1964年東京都生まれ。早稲田大学政治経済学部政治学科を経て、1989年に株式会社文藝春秋に入社。『スポーツ・グラフィック・ナンバー』『マルコ・ポーロ』編集部、『週刊文春』記者・デスク、『文藝春秋』編集部などを経て、2012年に『週刊文春』の編集長に就任。圧倒的なスクープ力で、同誌を日本を動かすメディアへと成長させた。2021年7月に『文藝春秋』編集局長兼編集長に就任。創刊100周年を迎えた、文藝春秋社の看板雑誌の舵取りに注力する。
ふじわら・ひろし(Fragment Design)
1964年三重県生まれ。1982年頃からロンドンやN.Y.に渡航し、パンクやヒップホップといった最先端カルチャーの中心人物と交流を深める。1980年代前半からは東京のクラブシーンに新風を吹き込むミュージシャンとして、1980年代後半〜90年代前半からはストリートやアートに根づいたファッションを生み出すプロデューサーとして、東京のみならず世界のカルチャーシーンに絶大な影響を及ぼす。近年ではデザインスタジオ「Fragment Design」名義で、ロロ・ピアーナ、ブルガリをはじめとする世界的なメゾンブランドやナショナルブランドとのコラボレートを数多手がけている。