「復原」された赤レンガ

 初代《東京駅丸の内駅舎》は、明治以降の建築の礎を築き、「明治建築界の法王」という異名を持つ辰野金吾による設計である。当初、平屋建て、一部2階建てという構成だったのだが、日本が日露戦争に勝利することで国威発揚ムードが高まり、東京駅の予算も拡大。結果、総3階建てに変更され、鉄骨レンガ造の《東京駅丸の内駅舎》が1914年(大正3)に完成する。

初代《東京駅丸の内駅舎》

 2代目は戦後、短期的な「つなぎ」として復旧された。空襲によって炎上した3階は修復せず、2階建ての建物に変更。ドーム型の屋根も木造の天然スレート葺きの寄棟の八角屋根とし、とりあえずの復興を急ぎ再建される。しかし、実際は約60年間もそのまま使われ続けることになり、むしろこの姿の方が馴染み深いという人も多いかもしれない。

1997年戦災復旧後、復原工事以前の《東京駅丸の内駅舎》 PekePON, CC BY-SA 3.0, via Wikimedia Commons 

 この2代目駅舎については、取り壊し・建替えの計画が1970年代からたびたび持ち上がるのだが、1986年(昭和61)、丸の内口の再開発構想が発表され、既存の駅舎をどうするのかということが本格的な最重要課題となった。

 これに対し「このままでは赤レンガ駅舎が取り壊され、高層ビルに建て替えられかねない」として、計画変更の賛同者を募る大規模な署名運動が起こったり、日本建築学会により丸の内駅舎保存の要望書がJR東日本に提出されたりするなど、保存を求める気運が大きく高まっていくことになる。

 結果、1999年(平成11)、丸の内駅舎を創建時の姿に戻す計画が、当時の都知事とJR東日本の社長により発表され、ようやく実現に向けて動き出すことになり、そして2012年(平成24)、今私たちが目にしている3代目《東京駅丸の内駅舎》がついに完成することとなる。

3代目《東京駅丸の内駅舎》 写真=アフロ

  今回の3代目《東京駅丸の内駅舎》の保存・復原工事では、さまざまな部位で既存部分と新規の部分の融合そして共存について、多種多様な創意工夫が施されている。今回はそれらを具体的に見ていこうと思うが、まずはその前に1つ、注目しておきたいポイントがある。

 それはこの3代目の工事が「復原工事」と謳われていることである。「復元」ではなく「復原」。一般的な辞書では、それらは「元の位置や形態に戻す」という意味で同一の語として用いられており、雑誌やテレビなどのマスメディアでは「復元」を使うようだ。しかし、それらは実は本質的に大きな違いがある。

「復元」は失われて消えてしまったものを、かつての姿どおりに”新たに作る”ことを意味する。遺跡に復活した竪穴式住居や、解体されて無くなってしまった建築がレプリカとして蘇るのがこちら。

 一方「復原」は、元々の姿が改造されてしまったり、変化してしまったりしたものを”元通りの姿に戻す”ことを指し、修理、修復というニュアンスを含んでいる。なので3代目はこちら、「復原」が相応しいというわけ。些細なことかもしれないが、私はこのような言葉のチョイスからも、この工事が単なる再建工事ではなく、《東京駅丸の内駅舎》という歴史や文化の継承を担っている重大な工事であったということ、そしてそれに関わった人々がいかに実直に、そして真摯にそれに向き合ったのかという心意気や誇りを感じる。

 さてそれでは、3代目はどのように「復原」されているのか見てみよう。

3代目《東京駅丸の内駅舎》南口 写真=アフロ

 まずは外観。

 なんと言ってもこの駅舎を特徴付けている外壁の赤いレンガ。実はこのレンガ、既存のタイルの色味が中央部、北側、南側とでそれぞれ微妙に異なっていたのだ。そのため、修復に用いたものは、既存のタイルに馴染むよう、焼く条件を変えるなどして、あえて色ムラを作り出している。

 また、外壁の白い柱の一番上の部分にあるイオニア式の装飾。これは、仮復旧時に2階に下げられて付けられていたのだが、元の高さである3階に戻された。

 さらに、窓の白いサッシは、初代の木製のものが空襲で焼失したためスチール製になっていたが、今回はアルミ製に換えられた。加えて、割付も変更されていたのでオリジナルの割り付けに戻された。

 他にも、初代の最大の特徴だったドーム状の銅板葺きの屋根は、寺社建築の屋根工事に長く携わってきた熟練技術者を招き、板金加工の実物モデルをまず作成して、職人たちが現場でそれを複製するという方法を取ったそうだ。いかに復原が難しく大変だったかが伺える話である。