「舞ちゃんが小学2、3年生くらいで、真央ちゃんが幼稚園に通っていた頃でした。『それくらいの子なら大丈夫だろう』、ということで担当しました」

 姉妹と「ああでもない、こうでもないと研磨したり、ブレードの位置を調整したり」。

 一般に名の知られるスケーターとしては、ジュニア時代の安藤美姫もメンテナンスを請け負った一人だ。

 だが公園は2005年の日本国際博覧会、いわゆる「愛・地球博」の長久手会場に使用されることになり、2002年にリンクは閉鎖。橋口は2006年に「モリコロパーク」内の施設としてスケートリンクが再開するまで、スケートとはかかわりのない職に就いた。

「万博がやっている頃まではスケートの人気が下がっているときで、リンクがどんどんつぶれていく傾向にありました。元いたリンクが万博後に再開するめども経っていませんでしたし、スケート業界に戻れると思いませんでした。結婚して子供も生まれたばかりだったので、生活を成り立たせることだけを考えていました」

 それでもリンクが再開されると、戻りたいという気持ちに抗えず、復職する。

 そこには、橋口の悔いもあった。

「真央ちゃんや舞ちゃんが成長して活躍するようになって、特に真央ちゃんは全日本選手権だったり脚光を浴びていきましたよね。ちっちゃい頃を知っている子がそこまで上がっていって、でも途中までしか靴をみることができなかった。途中までしか一緒に過ごせなかったことが・・・。もう1回、靴をみることができれば、という思いもありました」

 

「出張スタイル」になったきっかけとは?

車内に機械などをそろえ作業にあたる

 リンクに戻り、依頼を受けてはブレードの研磨や靴をみる仕事も日常に帰ってきた。ただ、それらに専念していたわけではなかったという。

「リンクに勤めているわけですから、リンクの管理であったりがメインの仕事であるわけです。ですから依頼があったとしても、時間によっては断らなければいけないことも増えていきました。また、研磨を教えてくれた上司がいなくなったことで、研磨は仕事の一環という扱いではなくなり、手が空いたときにやるものになったことも大きかったですね。わざわざ遠くから来ていただいても断らなければいけなかったりする状況が生まれました」

「申し訳ないな」と感じていたと言う。

 状況を打開するために始めたのが、車に機械を積み込み、どこでも作業できるようにすることだった。

「仕事が終わったあとや仕事が休みの日に、選手の家に行って作業をするようになりました」

 機械を積み込み、車で出向いて行なうスタイルはこのときに築かれた。

 やがて、橋口は独立し、ブレードの研磨や靴のメンテナンスなど、いわゆる足回りをみることを専業にする。

 そのきっかけとなったのは、宇野昌磨であった。(続く)

 

橋口清彦(はしぐちきよひこ)
中京大学卒業。アイスホッケーを始めたのを機にスケートに触れ、リンクに勤務する中でスケート靴やブレードの研磨など、メンテナンスに取り組む。2020年2月に独立し、店舗をかまえず出張して職務にあたる形で取り組んでいる。