庵野秀明という呪縛
落語家が、話のどこが面白いのかを解説してしまうことほど、話し手の無力を明かし立てる無様はあるまい。あるいは手品師が、手品を見せる前に、これから見せる手品はこういう仕組みです、と解説してしまったら台無しだ。それと同じことではないだろうか。
いや、もしかしたら、『サンダーバード』に負けじと、日本特撮の金字塔を打ち立てた円谷英二の『ウルトラセブン』や『マイティジャック』、ウォルト・ディズニーに挑戦した手塚治虫、翻訳されたロバート・A・ハインライン。庵野秀明もまた、誰かによって解釈された作品、「リメイク」に浸かり、原典とリメイクを解きほぐしていったのかもしれない。それが、庵野秀明という作家の血肉となっているのだとしたら、これを解説するのは、そもそも本人でも不可能なことなのかもしれない。それをして、呪縛と言っているというなら納得する。
筆者が学生だったころ、映画の研究者が、いまならまだ、映画の誕生から現在に至るまで世に出た映画のほとんどすべてを見切ることも不可能ではない、と言っていた。そしてエヴァンゲリオンが放映されていた頃、放映されるアニメは一通りチェックして、過去のアニメも貪るように見ていた筆者のようなアニメファンも、おそらく無意識に、いまならまだ、日本のアニメをすべて見切ることも不可能ではない、とおもっていたのではないだろうか。なんでそこまでしたかったのかはわからないけれど、たぶんただ、アニメが好きだったのだ。それも呪縛だったのかもしれない。
庵野秀明展の第三章は「挑戦、或いは逃避」という小見出しで、おそらく現在、あまり顧みられることのない、エヴァンゲリオン後の庵野秀明作品がならぶ。興味深かったのはここに、今年公開の『シン・エヴァンゲリオン』までがカテゴライズされていることだ。こうやって括られてみると、『シン・ゴジラ』が1954年の初代『ゴジラ』のリメイクだったように、『ヱヴァンゲリヲン新劇場版』は、新世紀エヴァンゲリオンのリメイクだったことに気付かされる。あの高踏派が、これほど親切なリメイクをやったというのは、おもってみれば、それまでなかったことだ。
自分でもできる、あるいは自分ならもっとうまくできる。自分を呪い、縛ったものを、夢中で、我儘に表現した庵野秀明は、エヴァンゲリオンの大ヒットで日の当たる場所に連れ出された。当時のアニメファンが感じた、まさかエヴァンゲリオンがお天道様の下に出るなんて、という驚きは、それを作った庵野秀明にもあったのかもしれない。
その予想外の展開で、自分がやったことが世の中を動かしてしまったプレッシャーで、ひとりの作家として、自分だったらどういう表現するだろう、あるいは、どういう新しいことができるだろうと、責任感をもって問うようになったことが、庵野秀明の挑戦であり、あるいは、そこからの逃避も、試みたのかもしれない。
この展覧会って、庵野秀明による庵野秀明のリメイクなの? 展覧会も終盤に差し掛かって、いまやだいぶ老いたアニメファンである筆者は、考察し始めるのだった。
展覧会はここで終わらない。今後登場する『シン・ウルトラマン』、『シン・仮面ライダー』がまとめられたパートは、その次の章として、「憧憬、そして再生」というパートに入る。自らを客観的にみつめ、自分を呪い、縛った作品を、素直に憧れと表現して、それを引き取って、再生させようと、庵野秀明はおもっているのか。最後に、第一章に集められていた、これってどこから持ってきたんだ? と疑問だった今となっては歴史的資料への、「感謝、そして報恩」が、語られて展覧会は終わる。
ここまで総括されてしまったら、筆者と同世代の、高踏派時代の庵野秀明たちによって呪い縛られたアニメファンも、そろそろ、そのわだかまりに、あれはいまにして振り返れば憧れだったんだ、と精算して、たくさんの発見をくれた彼らに、感謝してもいいのかもしれない。
そして、庵野秀明展を見る若者たち、エヴァンゲリオンの初回放送時には、もしかしたら生まれてもいなかった若者たちは、これをきっかけに呪い縛られるのもいいけれど、むしろ、そんな呪縛におそらく世界一苦悩して、結局、そこから逃げずに技を磨いた名人の、名人芸がこれから見られることに、期待してもらいたい。
庵野秀明が、引退するつもりではないことは、明らかだ。ここから先がある。我々はそれに立ち会える。それは、この時代に生きる僕たちの特権だ。期待に期待を重ねて、シン・仮面ライダーを迎えようじゃないか!