文=鈴木文彦 イラスト=ナガノチサト
ワインとフランス文学のスペシャリスト、鈴木文彦氏が指南する、ワイン選びの極意
今回の質問者
「今年、ロシアがロシア産のスパークリングワインだけを“シャンパン”と認めるというようなニュースを見ました。この場合、本家の“シャンパン”はどうなってしまうのでしょうか?」(40代・営業)
少し前の話になってしまうけれど、今年7月に、ロシアがロシア産のスパークリングワインだけに「シャンパン」を名乗ることを認め、シャンパーニュのそれはスパークリングワインと名乗るように、という法律を発効した、という報道がなされた。
これだけ聞くと、「え?」となるのが、普通だろう。実際、SNSではそんな反応が大半だった。
シャンパン、ないしシャンパーニュは、シャンパーニュ地方で造られたスパークリングワインのこと。しかもこれが、単にシャンパーニュで造ればそれでいい、というほど気楽な肩書ではないことはワインの世界では有名だ。
使用可能なブドウ品種、ブドウ樹の剪定方法、1ヘクタールあたりの収穫量、圧搾で得る果汁の量、収穫時の最低潜在アルコール度数、瓶内二次発酵と瓶内熟成期間といった、品質に関わる様々な規則があって、それを守らないとシャンパーニュとは名乗れない。さらに、造り手がそれ以上に厳格なルールを自らに課している場合がかなり多い。
そんな、ハードルが高いシャンパーニュなのだけれど、セロテープは商品名で、セロハンテープが一般名詞、というような雰囲気で、スパークリングワインの代名詞的存在でもあることから、これまでも他産地のスパークリングワインや、ワインに限らず、食べ物とか化粧品とか団体の名前とかに、なんらかシャンパーニュという名称が使用されたことは度々あって、その都度、シャンパーニュはそれを変更するよう求めてきた。
そんなシャンパーニュ相手に、今回のロシアの話だから、穏やかではない。このニュース、もうちょっと詳しく見てみよう。
ロシアの謎めいた新法
この新法は、2021年7月2日、プーチン大統領が署名した。
ロシアのスパークリングワイン生産者は、ロシア語でシャンパンを意味する「シャンパンスコエ」(Shampanskoye)と自分のワインに表示できるけれど、シャンパーニュを含む外国のスパークリングワイン生産者は、ボトルの裏にキリル文字でスパークリングワインと表示しなければいけない、というのがその内容だ。シャンパーニュの場合、表ラベルに「Champagne」というアルファベット表記があるのは問題ない。
不思議なのは、なぜ、ロシアがこんなケンカを売るようなことをしたのかがよくわからないところだ。シャンパーニュの上記のルールは原産地呼称とよばれるもので、この原産地呼称制度は、世界120カ国で守られている。これに対して挑戦的な行為をおこなうのであれば、問題はシャンパーニュだけにとどまらず、EU・ロシア間の摩擦に発展する可能性すらある。
実際、この新法を受けて、シャンパーニュ地方のワイン生産同業組織であるシャンパーニュ委員会(CVIC)は、「容認しがたい」という、実に当然な声明を出し、法の見直しを求めてロビー活動を開始した。そして、シャンパーニュのロシアへの出荷停止を決めた。
貿易に混乱をもたらしたくないため、とのことで、9月15日にシャンパーニュ側がひとまず折れる形で、シャンパーニュのロシアへの出荷停止措置は解除されたけれど、だからといってシャンパーニュは納得していない。
この出荷停止を、今年はシャンパーニュが記録的に売れているから年末の売りどきを逃したくないため、と見る筋もありはするけれど、シャンパーニュにとって、ロシアの経済的なインパクトはそんなに大きくないとおもわれる。2020年のシャンパーニュのロシア向け輸出額は3503万ユーロで、世界で15番目の市場。出荷量はシャンパーニュ全体の2.4億本のうちの188万本にすぎず、0.8%程度だからだ。
とはいえ、ロシアの狙いはそこで、この混乱に乗じて、ロシア国内のスパークリングワインを成長させるぞ!ということなのかというと、どうもその線も薄そうだ。
ロシア産のスパークリングワインは1本千円代がメインで、品質的にも価格的にも、世界的に1本数千円はするスパークリングワインの王者とすぐさま競合するようなものではないという。
それに、よしんば「シャンパンスコエ」が、シャンパーニュに負けないワインなのであれば、わざわざシャンパンをつける必要もなくはないだろうか。
ワインの世界にはちょっと似たような話でアメリカの例がある。アメリカでは一部の生産者が、自分たちのワインに、シャンパーニュ、シャブリ、シェリーを使える場合がある。アメリカではこの3原産地が一般名詞的に使われていた過去があるので、2006年3月10日より以前に、自社製品にシャンパーニュ、シャブリ、シェリーを使っていた場合は、以降もそのまま使っていいとしている。
とはいえ、アメリカはすでにワイン産地として世界最高峰。虎の威を借る必要などなく、逆に、シャブリと書かれたアメリカ産白ワインなど目にしたら「この生産者はワインのことを知らないんだな」と思って、飲む気がなくなりはしないだろうか。
アメリカのシャンパーニュ、などというものを、今日そうそう見かけないように、ロシアのシャンパーニュなんていわれても消費者からしたら胡散臭いだけだとおもわれる。
なんとも謎めいた新法だ。
シャンパーニュの発展にロシアあり。
ところで筆者は、このニュースを聞いたときに、シャンパーニュの2つの生産者の話が頭に浮かんで、気の毒だな、とおもった。
まず1つが、ルイ・ロデレール。ルイ・ロデレールといえば、シャンパーニュ界最高級の「クリスタル」で有名だけれど、このシャンパーニュがクリスタルという名前のとおり、透き通った、そして、底がくぼんでいないボトルに入っていることにはロシアが関係している。
クリスタルは、1876年にルイ・ロデレールのファンだったロシア皇帝アレクサンドル2世(在位:1855年3月2日から1881年3月13日)が特注した、皇帝のために造られたシャンパーニュ。この皇帝、1880年2月に、食堂爆破事件で暗殺されかかり、1881年3月には、馬車に爆弾を投げつけられて暗殺されてしまう。
そんな命を狙われがちな顧客のために、ボトルに爆弾などといった武器を隠せないように、クリスタルは、独特のボトル形状を採用して、いまもそれを続けている、といわれている。
どこまで真実かはわからないけれど、ルイ・ロデレールの副社長にして醸造責任者のジャン・バティスト・レカイヨンさんは、クリスタルを紹介したときに、そんな逸話を語ってくれた。そして……
「我々とロシアとの関係を話し始めたら、長くなりますよ」
この言葉、筆者は、レカイヨンさん以外からも聞いたことがあった。それが、ヴーヴ・クリコのCEO ジャン=マルク・ギャロさんだ。
ヴーヴ・クリコという社名は、寡婦クリコという意味。1772年にフィリップ・クリコという人がランスに設立した「クリコ」が現在のヴーヴ・クリコの前身で、フィリップの子、フランソワは、バルブ・ニコル・ポンサルダンという女性と結婚するのだけど、このバルブ・ニコル・ポンサルダンこそがヴーヴ・クリコご本人だ。
結婚の6年後の1805年に、フランソワは死んでしまう。するとクリコ未亡人、フランソワが情熱を注いだシャンパーニュ造りと経営を引き継いでしまうのだ。この時代に20代の女性経営者、というのがそもそもなかなかに珍しいというか大胆なことなのだけれど、このクリコ夫人、クリコ夫人なくして今のシャンパーニュなし、といえるほどの天才で、シャンパーニュに数々の革新をもたらしている。いまも、語り継がれているクリコ夫人伝説の一つに、ロシアが関係するものがある。
1728年、時のフランス王ルイ15世は、新時代のフランスの飲み物としてシャンパーニュ地方の発泡するワインに注目。これを優遇する。そして、この国王お墨付きのフランス発新飲料は、ドイツ、スペイン、ベルギー、ロシアと、国外の上流階級にも広がっていったのだけれど、シャンパーニュを海外で有名にした立役者として、名前が挙がるのが、国王の信頼篤かった現在のモエ・エ・シャンドンとして知られる会社の創業者、クロード・モエ、そしてシャンパーニュの造り手で初めて海外セールス部隊を編成したフランソワ・クリコだ。
特に、クリコはロシアの皇帝や貴族からの支持が篤かった。
ところが、1789年にフランス革命、そして革命後の混乱を経て1804年に、皇帝ナポレオン・ボナパルトが即位すると、ロシアが遠くなる。フランス皇帝にモエが愛される一方、最大の顧客がロシアだったクリコ夫人のほうは、フランスがヨーロッパ中にケンカをふっかけるだけでも大迷惑なのに、港湾封鎖まで起きて、海路が停滞。さらにはアレクサンドル2世の父親の兄で、当時のロシア皇帝だったアレクサンドル1世がフランス製品を禁輸にしたおかげで、経営が大ピンチになる。
ナポレオンがエルバ島に流された1814年。禁輸措置がまだ解かれていないなか、クリコ夫人はロシア輸出を強行した。オランダの輸送船をチャーターし、カリーニングラードとサンクトペテルブルクにそれぞれ1万本ほどの自社シャンパーニュを輸出したという。見つかったらいろいろヤバそうなこの作戦、うまくいったそうだ。クリコ夫人のシャンパーニュは即完売したといい、その後、ロシアの王侯貴族のヴーヴ・クリコ愛も再燃した。ヴーヴ・クリコはピンチを乗り越えたどころか、ロシアに支えられ、大いに成長した。
もちろん、これらはいずれも、いまから100年以上も前の話。その後、シャンパーニュにも、ロシアにも色々とあったから、現在、ロシア市場は確かに、シャンパーニュにとって、そこまで重要な市場ではないかもしれない。とはいえ、じゃあそれで、シャンパーニュの造り手たちが、ロシアによって愛され、支えられた歴史を忘れているか、というと、そんなことはない。
なのだから、なにもシャンパーニュにケンカを売ることはないじゃないか。実際、今年も、シャンパーニュは美味しいのだし。
ヴーヴ・クリコ
イエローラベル ブリュット
ルイ・ロデレール
コレクション242