ブランド名には、デザイナーの死生観も反映されている。時の移ろいとともに、日常の生は、非日常の死に移り変わる。時の移ろいとともに、枯れた植物は種を残して芽を出す。日常と非日常は時とともに移ろいながらつながっているのだ。藤子・F・不二雄が提唱する「SF(すこしふしぎ)」に近い感覚だと、彼はこの本の中で書く。この感覚は、コロナ禍のまっただなかにある私たちには身をもって理解できるのではないか。非日常が続くあまり、それが日常になっている。新しい日常と言われても、かつての日常とぷっつり分断されているわけでもない。日常と非日常はつながっており、その違いは、ともすると見過ごされてしまうほどに、ほんのすこしなのだ。
前衛的な作品とクラシックな倫理観
アンリアレイジの作品やショーだけを見ると、大展望台でのショーといい、紫外線照射で色が変わる服といい、〇△□のコレクションといい、家のような服を表現したHOMEコレクションと言い、哲学的ながら奇想天外な表現に見える。コンセプトは理知的で洗練されており、常人には思いつかない天才の発想のように見える。
しかし、本書で明かされるそれぞれの作品の背景から伝わってくるのは、過度なくらいにウェットな、周囲の人との関係である。とりわけ、彼をファッションの世界に導き、キャリアの転機となるポイント、ポイントで常に支柱となってきた神田恵介との絆の濃厚さときたら、血よりも濃いのではないか。マニアックなパッチワークが生まれた背景にも、中学時代からの親友である真木くんがいて、彼とのエピソードもまたじわりとしみいる。
情が濃すぎるあまり霊界の人との結びつきまで示唆される。アンリアレイジをパリコレに導く後押しをしたのは大塚博美だが、その背後には、すでに故人となっていた堀切ミロがいた。森永邦彦の伯父にあたる森永博志とミロがつながっていたことで、大塚が動いたのである。その伯父にしても、ファミリーとの縁を切っていたので、森永邦彦がみずから動き、探し当てている。
そんな数々の人間の絆にいろどられた物語に心をつかまれると、前衛的でコンセプチュアルなモードが、一転して、血の通った、むしろ野暮なほどの感情のやりとりの有機的な果実と見えてくるから不思議である。ここにもまた、日常(友人や家族、社員との関係)と非日常(大舞台での作品やショー)が一続きになっていることに気づかされて、やられた、と思わされるのだ。
日常と非日常が一続きであるように、日々の生活の中で人との関係を慈しんでいくことと、仕事での大きな業績は、実は一続きなのである。本書からはそんな倫理観まで伝わる。
新しい日常、と躍起に騒ぎ立て、古い人間関係を断捨離することまでを奨励するアジテーションが散見される時代だが、そのような浮薄な流れに抵抗し、まずは自分の周囲を大切にする。人としての基本を守り抜くやさしさの延長に大きな人生の果実が実るであろうことを、森永邦彦は教えてくれる。最前衛を切り開く人は、意外と「古い」のだ。