隆盛元禄時代、竹本義太夫と近松門左衛門のタッグから

『曾根崎心中』で描かれた、大阪の堂島新地・天満屋の遊女「お初」と内本町平野屋の手代「徳兵衛」の心中事件があった「露天神社(つゆのてんじんじゃ)」(通称「お初天神」)。今も恋人の聖地として多くの参拝客が訪れる

 さて、ここでちょっと文楽の歴史を。文楽とは、人形浄瑠璃という言葉からわかるように、「人形」と「浄瑠璃」が合体したものだ。

 日本の三味線音楽は「唄物(うたもの)」と「語り物(かたりもの)」に大別される。浄瑠璃はもちろん語り物。江戸時代、浄瑠璃には、現在の文楽で語られる義太夫節(ぎだゆうぶし)のほか、河東節(かとうぶし)、一中節(いっちゅうぶし)、常磐津節(ときわずぶし)、清元節(きよもとぶし)などが生まれた。ちなみに長唄(ながうた)、小唄(こうた)などは唄物である。

 芸能としての語り物は鎌倉時代、琵琶法師が平家物語を語った「平曲(へいきょく)」にさかのぼるといわれる。やがて平曲以外を演奏するものも現れ、室町時代中期、牛若丸と浄瑠璃姫の恋物語『浄瑠璃物語』が人気を集めるようになった。浄瑠璃という言葉はこれに由来する。

 そして浄瑠璃は三味線と出合う。三味線は16世紀ごろ琉球(沖縄)から伝来した三線(さんしん)を改良したもの。その豊かな表現力で江戸時代の人々を魅了した。伴奏には琵琶を用いていた浄瑠璃は、三味線を取り入れることによりますます盛んとなる。この浄瑠璃と人形芝居が結びついたのが人形浄瑠璃なのだ。

 人形浄瑠璃の隆盛は元禄時代、浄瑠璃語りの竹本義太夫(たけもとぎだゆう)が浄瑠璃作者(今でいうシナリオライター)近松門左衛門(ちかまつもんざえもん)と組んだことによりはじまる。義太夫は謡(うたい)や流行唄(はやりうた)などさまざまな要素を取り入れたドラマティックな語りで人気を集め、大坂の道頓堀に自ら竹本座をおこした。元禄16年(1703)、近松が実際の心中事件を脚色した『曾根崎心中(そねざきしんじゅう)』を初演、これが空前のヒットに。義太夫節は浄瑠璃を席巻し、やがて浄瑠璃といえば義太夫節を指すようになった。

 竹本義太夫が竹本座を開いたころにはまだ人形も小さくひとりで遣うものだったが、さまざまな工夫を重ね、享保19年(1734)『芦屋道満大内鑑(あしやどうまんおおうちかがみ)』で、現在に繋がる人形の三人遣いが登場する。

 

歌舞伎をしのぐ人気も一時衰退…明治・大正「文楽」として第二次黄金期へ

 18世紀中ごろがまさに人形浄瑠璃の黄金期。「三大名作」といわれる『菅原伝授手習鑑(すがわらでんじゅてならいかがみ)』『義経千本桜(よしつねせんぼんざくら)』『仮名手本忠臣蔵(かなでほんちゅうしんぐら)』が次々と上演され、上方での人形浄瑠璃人気は歌舞伎をしのぐほどに。しかし18世紀後半になると、歌舞伎が隆盛してきたのに加え、竹本座と、それに並ぶ人気を得ていた豊竹座も資金繰りが悪化。両座とも閉鎖に追い込まれ道頓堀から撤退、人形浄瑠璃は衰退していくこととなる。

 人形浄瑠璃の再興は寛政(1798~1801)のころ、淡路出身の植村文楽軒(うえむらぶんらくけん)が大坂に出て浄瑠璃の稽古場を開いたことに端を発する。後に人形浄瑠璃の小屋を設け、明治5年(1872)には「文楽座」の看板を掲げる。このころからが人形浄瑠璃の第二次黄金期。名人を輩出し、明治大正を通じ大阪の旦那衆の厚い支持を集めた。現在の文楽という名称もこの文楽座から来ている。

 その後、文楽座の経営は松竹の手に移り、戦後は2派に分裂したこともあったが、昭和38年(1963)、大阪で生まれ育まれた伝統芸能として、財団法人文楽協会が大阪に設立され再びひとつにまとまり、現在に至るのである。