なぜ、「龍の都」と呼ばれたのか
本殿がある場所は高台で、海を見晴らす場所に遥拝所がある。説明板には、「右斜め前方の大嶽神社、小嶽神社、正面真東の伊勢の神宮、宮中三殿を拝する」と書かれている。方向的には少し不思議だが、なんにせよ、大海原に向かってたくさんの神様にお参りできるのはよいことだ。ここには二つの亀の形をした石も鎮座している。昔、神功皇后が三韓征伐に出かける際、この場所の対岸で無事凱旋できるようにと祈願すると、雌雄二匹の黄金の亀に乗った神々が現れて導いてくれた。その亀はのちに石になり、ここに祀られたという。
鹿角庫と呼ばれる驚くべき建物もある。神功皇后は対馬でも戦勝祈願のための鹿狩りを行い、勝利を得て無事帰還。この神社に鹿の角を奉納した。その後、御神意に授かろうと、戦国武将などが次々に鹿の角を奉納した。その数なんと一万本。建物の窓からのぞくと、確かに鹿の角がぎっしりと詰まっている。
奉納の理由は定かではないが、鹿の角は古くより釣針や武具、薬などとして使われてきた貴重なものであったため、神への奉納品にふさわしかったのではと言われている。
この神社には、「山誉祭」という無形文化財の祭もある。4月と11月に行われるこの祭は、五穀豊穣を祈り、収穫に感謝するためのものだ。安曇族は海の民の祭なのに山を誉める。これは、山があってこそ海の豊穣も保たれるという現代にも通用する考え方が根底にあるようで、独特の祝詞には鹿に関する言葉も含まれている。
ところでここが「龍の都」と呼ばれたのはなぜか。海神である綿津見神の棲み処は海の底にあり、その名は龍宮城。つまり綿津見神は龍神でもあるということだ。「龍の都」という言葉からは、海に突き出した小さなこの島に向かってたくさんの龍が押し寄せる光景も想像される。境内には龍にまつわるアートを展示する建物もあり、龍がデザインされたお守りなども各種用意されているので、ぜひ受けて帰ろう。辰年は間もなく終わるが、龍神様のご利益は永遠に続くはずだ。
時間があれば、島の対岸にある摂社、中津宮と沖津宮にもお参りしたい。島は一周約10kmなので、二つの摂社までは5km。徒歩ではややきついので、車かレンタサイクルで行くとよい。
まずは中津宮。こちらは海に面した小高い丘の上に鎮座している。このあたりの地名を勝馬といい、この神社は勝馬宮ともいう。実はこの丘は古墳で、勝馬のあたりに住んでいた豪族の首長の墓なのである。沖津宮は少し沖にある小島に鎮座しており、普段はこの場所から遥拝するしかない。干潮の際にだけ砂州が出現し、歩いて渡ることができるが、季節によっても状況が違うので、行きたい人は事前によく調べて出かけよう。
金印公園にも立ち寄りたい。紀元57年に後漢の光武帝が奴国の王に与えたとされる「漢委奴国王(かんのわのなのこくおう)」と記された金印が、天明4(1784)年にこの付近で発見されたことを記念した公園である。出土した金印は長く福岡藩主の黒田家が保存してきたが、現在は福岡市博物館に展示されている。
起元57年と言えば弥生時代。船で玄界灘を超え、当時の先進国だった中国に行って皇帝に謁見し、授与された金印を持ち帰ってきたとは、なんとも壮大な歴史のロマンである。ちなみに「奴国」があったとされる場所はこことは少し離れており、金印がなぜこの島にあったのかもわかっていない。この小さな島は、日本の黎明期に関する幾多の謎を秘めているのだ。