シュルレアリストにディスられる
美術史ではシュルレアリスムの画家に区分されることがあるデ・キリコだが、それは違う。シュルレアリスムの創始者である詩人アンドレ・ブルトンが『シュルレアリスム宣言』を発表したのは1924年のこと。
デ・キリコはその10年以上も前からシュルレアリスムの先取りともいえる形而上絵画を描いていた。そんなデ・キリコはサルバドール・ダリやルネ・マグリットらシュルレアリストたちから崇拝された。彼らはデ・キリコをリスペクトし、交流を深めたいと願った。
だが、『シュルレアリスム宣言』から2年後の1926年。デ・キリコは突如として、シュルレアリストたちから手のひら返しでディスられてしまう。パリで開催されたデ・キリコの新作展に、形而上絵画とはまったく異なる作品が並んだためだ。
古典的絵画を経て新形而上絵画へ
実はデ・キリコは形而上絵画の制作に励みながらも、関心は徐々にほかへと移っていた。1919年にローマの美術館でルネサンスの巨匠ティツィアーノの油彩画に感銘を受けたのをきっかけに、古典絵画の技法や表現に夢中になる。伝統的な絵画への回帰という、思いもかけない展開。そんなデ・キリコを見て、シュルレアリストたちはさぞかし面食らったに違いない。
フィンセント・ファン・ゴッホ《ひまわり》に題材と構図を借りた《菊の花瓶》、ルノワールへの傾倒が見られる《横たわって水浴する女(アルクメネの休息)》。この後に描かれた《風景の中で水浴する女たちと赤い布》では、ルノワールのほか、ルーベンスやベラスケスなどバロック絵画からの影響も強く感じられる。
とはいえ、デ・キリコが古典的絵画に取り組んでも、伝統という枠に収まるはずがない。ある意味、形而上絵画よりもはるかに不穏で現実離れしている。1920年代以降の作品の評価は決して高くはないが、デ・キリコならではの奇妙な感覚を存分に味わえる。表面上は普通であるかのごとく装った、奈落に潜む異常のような。
デ・キリコは晩年に再び、形而上絵画に取り組むようになる。だが、古典への傾倒をはじめ、これまで描いてきたものすべてを統合した作品は、若き日の形而上絵画とはまったく違う。「新形而上絵画」と“新”を付けて呼ばれているが、完全に別物だ。「すっかり毒気が抜かれ、穏やかで優しい」とさえ感じる。マネキンも登場するが、不気味さはない。