【藤原行成】四納言にして「三蹟」
藤原行成は、天禄3年(972)に生まれた。道長よりも6歳年下で、今回取り上げた3人の中で、最年少だ。
父は、「一条摂政」と呼ばれた藤原伊尹(藤原兼家の兄)と恵子女王(醍醐天皇の皇子・代明親王の娘)の間に生まれた藤原義孝。
母は、源保光(代明親王の皇子/醍醐源氏)の娘である。高橋光臣が演じた藤原義懐は、叔父にあたる。
輝かしい家系に生まれた行成であるが、祖父の伊尹は行成が生まれた年に49歳で、父の義孝は天延2年(974)に21歳の若さで没してしまう。
僅か数え3歳で父を亡くした行成は、外祖父・源保光の庇護を受けて育った。
保光は漢学に造詣が深かく、故実先例の分野でも一流であったと思われ、行成は祖父から充分な教育を受けたと推定される(黒板伸夫『人物叢書 藤原行成』)。
その祖父も、疫病が大流行した長徳元年(995)の5月8日に亡くなってしまう。行成、24歳のときのことである。
井浦新が演じる藤原道隆、玉置玲央が演じる藤原道兼が死去し、内覧に任じられた道長の政権が誕生したこの年、塩野瑛久が演じる一条天皇の蔵人頭に抜擢された。
49歳のとき権大納言に
行成は、一条天皇や吉田羊が演じる詮子、道長からの厚い信任を受け、順調に昇進し、寛仁4(1020)、49歳のとき、権大納言に至っている。第一級の史料である行成の日記『権記』の名は、行成の極官の権大納言によるものである。
能筆家としても著名で、後に、小野道風・藤原佐理とともに、「三蹟」と称された。
行成は、万寿4年(1027)12月4日、五十六歳で、この世を去った。奇しくも、道長も同日に亡くなっている。
清少納言との交流
ドラマの行成のイメージからすると、少し意外に感じるかもしれないが、行成は清少納言と、気が合っていたようで、『枕草子』には行成のエピソードがいくつも登場する。
『枕草子』「頭弁の職に参り給ひて」には、『百人一首』にも選ばれた清少納言の
夜をこめて 鳥の空音(そらね)は謀(はか)るとも よに逢坂の関は許さじ
(夜がまだ明けないうちに、鳥の鳴き真似で函谷関は欺けても、男女が相逢うという逢坂の関は、けっして許しませんよ)
の歌に対し、
逢坂は人越えやすき関なれば 鳥鳴かぬにも開けて待つとか
(逢坂の関は誰でも自由に越えられる関なので、鶏が鳴かなくても、開け放して来る人を待っているそうですよ)
(校注・現代語訳 川瀬一馬 『枕草子(下)』参照)
と返す、やりとりが綴られている。
ドラマでは、行成と清少納言との関係は、どのように描かれるのだろうか。