正妻になれず

 婚姻関係を結んだのは時姫が先でも、時姫と道綱母は、ほぼ同じ程度の身分の家の娘であり、結婚後、数年は道綱母が正妻に据えられる可能性を有していたという(星谷昭子『蜻蛉日記研究序説』)。

 だが、道綱母は道綱ただ一人しか子を授からなかったのに対し、時姫は道隆、道兼、道長、冷泉天皇の女御となった超子、吉田羊が演じる詮子と五人の子に恵まれていた。

 天禄元年(970)2月、道綱母が35歳の頃、兼家は東三条の豪華な新邸に移っている。

 道綱母はこの東三条邸に迎えられると期待していたが、それは叶わなかった。

 東三条邸に迎えられたのは、時姫とその子どもであった。同居により、正妻は時姫に決定したという(服藤早苗 高松百花 編著『藤原道長を創った女たち―〈望月の世〉を読み直す』高松百花 「第二章 道長の<母>たち ◎実母時姫・庶母・父兼家の妻妾」)。

 道綱母が『蜻蛉日記』の執筆を開始した時期に関しては諸説あるが、東三条邸に迎えられなかったことが、上巻の執筆の契機になったともいわれる(川村裕子『新版 蜻蛉日記Ⅱ』下巻)。

 

事実上の離婚?

 道綱母は天延元年(973)8月、38歳のとき、父・藤原倫寧に引き取られ、広幡中川に居を移した。

 事実上の離婚ともいわれるこの転居は「床離れ」とみられている。

 床離れは、完全に夫婦の縁が切れるのではない。兼家自身が道綱母のもとに通うことはなくなったが、手紙のやりとりや、仕立物の依頼、道綱の行き来はあったという(角川書店編『ビギナーズ・クラシックス 日本の古典 蜻蛉日記』)。

 実際に、兼家から頻繁に縫物の依頼が届いていることが、『蜻蛉日記』に記されている。

 その『蜻蛉日記』も、翌天延2年(974)の大晦日で、幕を閉じた。

 時姫は天元3年(980)正月に、兼家は正暦元年(990)5月に、それぞれ死去した。

 秋山竜次が演じる藤原実資の日記『小右記』正暦4年2月28日条には、道綱母が病悩したことが記されている。

 さらに、『小右記』長徳2年(996)5月2日条には、道綱が、亡母の一周忌の法事を行なったという記載がみられることから、道綱母は前年の長徳元年(995)に、60歳で亡くなったものと思われる。

 

道綱母にとっての『蜻蛉日記』とは

 道綱母が『蜻蛉日記』を書いたのは、兼家という高い地位にある貴族と結婚できた誉れをつづりたかった、という一面も存在したのではないかと、見る説もある(服藤早苗『「源氏物語」の時代を生きた女性たち』)。

『蜻蛉日記』を読む限り、兼家は時姫より道綱母を、より深く愛していたと推定する説もある(星谷昭子『蜻蛉日記研究序説』)。

 道綱母の胸の内はわからないが、幸せを感じる時間も少なくなかったことを願いたい。