『蜻蛉日記』は他人に読ませるために書かれた?

 道綱母は、『蜻蛉日記』の作者として著名である。

『蜻蛉日記』は上中下3巻からなり、天暦8年(954)~天延2年(974)頃まで、道綱母が数えで19歳~39歳頃までの21年間の出来事が綴られている。

 書名は、上巻末尾の「あるかなきかの心地するかげろふの日記といふべし(あるかないかわからない、かげろうのような、はかない日記ということになるのでしょう)」という記述に由来するという。

『蜻蛉日記』は、女流日記文学の道を開いただけでなく、紫式部の『源氏物語』にも大きな影響を与えたとされる。

 当時の人々の日記は、他人に読ませることを前提に書かれているという(増田繁夫『蜻蛉日記作者 右大将道綱母 日本の作家9』)。

『蜻蛉日記』も序文で、「天下の人の、品高きやと、問はむためしにもせよかし(最上の身分の男性との結婚生活とは、いったいどのようなものなのかと尋ねられた時の、答の一例になれば)」と記されている。

 紫式部や、ファーストサマーウイカが演じる清少納言、和泉式部など、他の当時の女流作家は宮仕えしていたが、道綱母は家庭にあって、作品を残しているところが、他の女流作家とは異なっていた。

 

兼家との結婚

『蜻蛉日記』によれば、道綱母は天暦8年(954)夏、藤原兼家に求婚され、同年秋に結婚した。道綱母が19歳のときのことである。

 当時の正式な手続きを経た結婚であり、道綱母は世間的にも、兼家の妻と認知されていたという(服藤早苗 高松百花 編著『藤原道長を創った女たち―〈望月の世〉を読み直す』高松百花 「第二章 道長の<母>たち ◎実母時姫・庶母・父兼家の妻妾」)。

 だが、兼家は道綱母と結婚したとき、すでに三石琴乃が演じた時姫と結婚しており、前年の天暦7年(953)に、井浦新が演じる藤原道隆が誕生していた。

 当然のことながら、道綱母もその家族も、時姫や道隆の存在を知ったうえで、兼家と婚姻関係を結んでいる。

 道綱母も翌天暦9年(955)8月に、藤原道綱を出産した。だが、同年の秋から冬、兼家は「町の小路の女」という女性のもとへ通うようになってしまう。

 この時に道綱母が詠んだ歌は、『小倉百人一首』にも選ばれている。

 嘆きつつ一人寝る夜のあくる間はいかに久しきものとかは知る

(嘆きながら、たった一人で寝ている夜が明けるのが、どんなに長いか、あなたにはおわかりにならないでしょうね)

 町の小路の女は兼家の寵愛を失うが、兼家はその後も、次々と別の女性のもとに通い、道綱母を苦しめた。

『蜻蛉日記』には、次第に道綱母から足が遠いていく兼家に対する怒りや、嫉妬、嘆きなどが綴られている。