「愚か」がボスのキーワード
《七つの大罪と四終》ではキリスト教世界のなかで繰り広げられる人間の愚かさを表現したボスですが、そのものズバリ、愚か者を描いた絵があります。
《愚者の石の除去》(1501-05年)はボス特有の愚者と人間の悪意をユーモラスに描いた作品です。当時は頭に石が詰まっていることから愚かになると言われていて、よく描かれたテーマでした。
ボスの絵は外科手術をして愚者の頭から石を取り出す場面で、いかにも胡散臭い偽医者による偽手術です。「頭から石を取り出す」には詐欺を働くと意味もあり、偽医者が頭に被っている逆さまにした漏斗は倒錯の象徴とされています。
水差しを持った修道士、頭に本を乗せた偽医者の妻もグルで、3人ともお金が目当てなのは明らかです。おそらく修道士は妻の間男でしょう。上に書かれている文字には「先生、石を取り除いてください」、下には「私の名はルッペルト・ダス(去勢された男)だ」とあります。ルッペルトには愚か者という意味もあります。
ボスが見たであろう、のどかに広がる風景のなかで、怪しげで滑稽な人物たちが愚かで醜い行為を繰り広げます。
七つの大罪はキリスト教的な罪でしたが、この絵のような愚者や罪人は悪です。一見するとコミカルな表現で、それほど痛烈に悪は伝わってこないかもしれませんが、よく見ると悪ばかりです。
詐欺の片棒を担ぎ、さらに間男として修道士を登場させていますが、ボスにはキリスト教者を批判的に描いている作品が多くあります。その背景には、当時のキリスト教の腐敗への痛烈な批判がありました。
ボスが悪をえぐり出した作品のひとつが《エッケ・ホモ》(1490年頃)です。《キリストの磔刑》(1485-90年頃)のように、北方絵画には祈念画(祈りのための絵画)がよく描かれました。絵を見てキリストの生涯を思い浮かべ、「キリストにならえ」という信仰のあり方が説かれます。右側でひざまずいているのはこの絵の寄進者で、祈念画に寄進者が描き込まれることも好まれました。
《エッケ・ホモ》自体は極めてキリスト教的な主題です。キリストはユダの裏切りによって逮捕されて裁判にかけられます。荊(いばら)の冠を被らせられ、手を縛られた血だらけのキリストを、ローマ総督ピラトという人物が民衆の前に連れ出すと、「エッケ・ホモ(この人を見よ)」と言います。すると民衆から「磔刑にかけろ!」という怒声が上がり、ピラトはみんなが言ったのだから自分には罪はないというのです。キリストの受難のひとつの場面がこの絵の主題です。
民衆の表現を見てください。ものすごくグロテスクで悪意に満ちた人たちの典型が描かれています。身振り手振りも激しく、一心にキリストを見ている民衆には、人間の醜さや悪意が満ち満ちています。このような人物描写がボスのひとつの特徴で、この絵ではキリスト対無知な群衆、罪深い群衆、愚かな群衆という形で表現しているのです。「エッケ・ホモ」というテーマで、こんな群衆を描いたのはおそらくボスだけでしょう。
左下に描かれていた寄進者一族は後世に上塗りされましたが、近年の修復で姿をあらわしました。「救世主キリストよ、我らを救いたまえ」という祈りの言葉も書かれていたことがわかっています。背景は北方らしい当時の街の風景が空気遠近法を用いて表現され、遠くに見える人々の様子も北方らしく詳細に描かれています。また、三日月が描かれた赤い旗は異教を表すもので、当時の異教の恐怖や非キリスト教的な状況が垣間見られます。
ボスにはキリスト教の主題の中で《キリストの磔刑》のような、祈念画として標準的な北方絵画に則ったものと、ボス的に悪をえぐり出したものの2通りがあります。しかし、悪をえぐり出した作品も、絶望的に感じられないところもボス的といえるでしょう。
このような悪意に満ちたカリカチュア的な人物像は、ボスと同時代の画家レオナルドにも残っています。《グロテスクな頭部》(1449年頃)というデッサンは真ん中の人物は普通だとしても、周囲にいるのはレオナルドにしては珍しい現実の人物というより誇張された人間の醜さの典型で、常にボスの作品と比較されています。
ボスは不思議な世界を描く奇想の画家と謳われながら、決して異端ではなく、キリスト教の教えに則り、独自の表現で人間の悪に警鐘を鳴らし続けた画家だといえるでしょう。
参考文献:
『謎解き ヒエロニムス・ボス』小池寿子/著(新潮社)
『図説 ヒエロニムス・ボス 世紀末の奇想の画家』岡部紘三/著(河出書房新社)
『名画の秘密 ボス《快楽の園》』ステファノ・ズッフィ/著 千足伸行/監修 佐藤直樹 /訳(西村書店)
『異世界への憧憬 ヒエロニムス・ボスの三連画を読み解く』 (北方近世美術叢書別巻) 木川弘美/著(ありな書房)
『ヒエロニムス・ボスの世界 大まじめな風景のおかしな楽園へようこそ』ティル=ホルガー・ボルヒェルト/著 熊澤弘/訳(パイインターナショナル)
『ヒエロニムス・ボスの『快楽の園』を読む』神原正明/著(河出書房新社)