取材・文=中野香織

suzusanの若手職人による絵刷りの作業。彼は地元の高校を卒業後、職人を志し18歳で入社。現在22歳

2023年5月にファッションビジネス学会に招かれ、「新・ラグジュアリー」について講演する機会をいただいた。その際に、日本ではラグジュアリーに関する議論が限定的にしかおこなわれていない現状を指摘し、まずは議論の機会を広げることを提案した。すると早速、ファッションビジネス学会で「ラグジュアリービジネス部門」を立ち上げてくださった。この日(9月18日)は「装談」第30回記念であると同時に、ラグジュアリービジネス部門立ち上げ初のイベントとなった。

suzusanの村瀬弘行さん、MIZENの寺西俊輔さんをお迎えし、中野がMCという形で、これからの日本の新しいラグジュアリーに関する議論をおこなった。会場はファッションデザイナーのインキュベーション施設でもある台東デザイナーズビレッジで、プロフェッショナルな方々を中心に約60名が参加(マイナーなテーマにしては各地から多くのご参加いただいたと主催者談)。前半は、中野の「新・ラグジュアリー」についての簡単な概要の解説、suzusan、MIZENそれぞれの挑戦についての報告がおこなわれ、後半に質疑の形で議論が進む。一部抜粋を3回に分けてお送りする。世界のラグジュアリー領域で挑戦を続ける二人の話が、領域を超えて、多くの方々にとってのインスピレーションの源になることと思う。

左から、suzusanの村瀬弘行、中野香織、MIZENの寺西俊輔。中野着用のセットアップは、有松鳴海絞×ARLNATA(寺西俊輔ディレクションのブランド)。「杢目鎧段竜巻絞(がんきもくめよろいだんたつまきしぼ)り」。

 

日本で「ラグジュアリー」が語られにくい理由

中野 日本でラグジュアリーに関する議論が盛り上がりにくい要因の一つとして、ラグジュアリーとは何かという統一見解がないことがあります。ことばが日本に入ってきたのが1970年代と遅かったのに加え、日本語の解釈が人によってずれているという事情があります。ラグジュアリーの日本での語られ方は、おおむね5つに分けられます。

 まず辞書的定義。豪奢、贅沢、豪華絢爛などが出てきますが、不十分ですし、偏見をより強化してしまいます。2番目として個人的ポエムがあります。「私にとってのラグジュアリーはお日様に干したお布団」のような主観的なポエムです。否定はしませんが、そこから議論が進みません。その3として高級ファッション誌的語りがあります。広告費をいただいているブランドの世界観の中での局地的な話になる傾向がどうしても強くなります。

 その4としてマーケティング上の最上位カテゴリーとして語られるラグジュアリーがあります。高品質、高価格、高プレスティージといった製品やサービスを扱うカテゴリーですね。1980年代から学術的にも研究が進んでいます。今の日本でラグジュアリービジネスというと、そのカテゴリーの勝者、フランスのコングロマリットの世界戦略ビジネスを連想されることが多く、その連想の延長で「日本には無理」と嘲笑されることも少なくありません。

 その5として歴史や文化も視野に入れる人文学的なとらえ方があります。私はこの立場から「4」を見る、というスタンスです。長いタイムスパンでラグジュアリーの歴史をとらえると、現在のいわゆるハイブランドがプレイヤーとなるラグジュアリー産業は、ここ40年ほどの高度資本主義下で成長した、「若い」産業にすぎません。歴史的な視野を提供しつつ、コングロマリットの世界戦略やローカライゼーションに巻き込まれない、日本独自のラグジュアリーのあり方を考えるきっかけの種まきをするのが今日のテーマです。

『新・ラグジュアリー 文化が生み出す経済10の講義』を元祖カルチャープレナーの安西洋之さんと共著で出版しておりますが、そこで提示いたしました「新・ラグジュアリー」の考え方を寝言に終わらせないビジネスの実践者をお二人、ご紹介します。日本オリジナルのラグジュアリーを世界で展開しているブランドでもあるsuzusan、MIZEN、それぞれのデザイナーから、どのようなお考えで、どのように世界展開をされているのか、お話いただきましょう。

 

400年、絞りに特化した街

江戸時代からの風景がそのまま残る有松の町。町としては400年の歴史があるが、一度、天明の大火で町全体が消失。瓦屋根と土壁になった今の町並みは200年前のもの

村瀬 われわれはsuzusanというブランドを2008年に立ち上げました。本拠地の有松は、名古屋駅からローカル線に乗って20分くらいの小さな町で、東から西まで歩いても15分という規模です。街の真ん中に東海道が走っていて、江戸時代、1608年に、当時の幕府が町を作りました。8家族が入村してきたと言われていますが、農作に向いていない地域だったので、東海道を旅する旅人にお土産として手ぬぐいを売ろう、と一家族が思いついたところから作業が始まりました。

 いまだにそうなんですが、有松の機能としては、絞りをやるだけです。織りや縫製は別の産地の機能で、絞りだけに特化した町としてこの400年、続いてきています。江戸時代から専売制が敷かれて、当時の幕府に気に入られたこともあり、250年間以上、絞りは有松でしか作ってはいけないというお触れのもとに産業として発展を遂げてきました。

 こうした染めの文化というのは、インドやチリやアフリカでも見られますが、だいたい一地域に多くて2つか3つの技術がある程度です。有松は家庭ごとに分業体制が整っていて、一つの反物を仕上げるために、6~7工程を経ています。それぞれすべて違う家庭が担っていました。技法は基本的には縫う、くくる、たたむという3つのコンビネーションなのですが、100種類以上の技法がこの小さな地域から生み出されており、最盛期には1万人以上の職人がいたと伝えられています。

 浴衣がメインの地域だったのですが、浴衣の需要がなくなるにつれて、職人の数もどんどん減り、僕が20歳になるころには、200人以下、父親が最後の世代という形になりました。

 そういうなかで、父も先がない産業だと思っており、とくに後を継げとも言わないので、僕は美術やアートを目指して日本の大学に入ろうとしました。でも日本の大学は入れてくれませんでした。それで、一浪して東京の大学を受けたんですが、受かるつもりで数字を見に行ったら数字がない。あれっ?ってなって。これは僕がいけないのではなく、この大学がだめだなと思って。帰りのバスの中でどうしようかと考えたときに、日本が受け入れてくれないなら海外へ行こうと決めました。

 一年間アルバイトをして20歳の時にイギリスに一年行きましたが、学費が高くて自分のお金も底をつき、ドイツだと学費がタダだと聞いたので、ドイツ語もわからないのにドイツに引っ越して、21歳のときにデユッセルドルフに落ち着きました。今41歳なので、もう人生の半分くらい、そこで過ごしていることになります。

 デユッセルドルフはアートが面白い地域で、ゲルハルト・リヒターとかピーター・ドイグとか、歴史の教科書に出そうな人が教授をやっています。学費もタダ、授業も出欠をとらず、卒業する時に先生に卒業しますって言わなければいつまでもいていいシステムです。

 ドイツに住んで数年たった頃、父から電話がかかってきて、イギリスで展覧会をやるから手伝ってくれと。初めて家業の仕事を海外で見て、単純に美しいなあと思いました。また展覧会に来られた方の反応が斬新で、日本だったら古くさい過去のものとみられていたものが、何か新しいものとして、新鮮な興味を示されたんです。これはもしかしたら面白いかもと思い、2008年にデュッセルドルフでsuzusanを立ち上げました。

 鈴木三郎さんという方が初代で始め、鈴三商店という屋号で、4代にわたり下請け業として担ってきていたのですが、その屋号から、suzusanというブランドにしました。自社の製品を作って、ブランドとしてタグ付けをして呼び始めたというのが2008年になります。

suzusanのデユッセルドルフの店舗

 今はファッションとインテリアを軸にブランド運営をしています。ファッションは春夏、秋冬2回コレクション。もともと夏の浴衣で成り立っていた産地で、木綿を使って絞りを施して浴衣にするというやり方が400年続いていました。でも絞りというのは二次加工の技法なので、素材と用途に関してはもっと自由になっていいと考えた結果、素材をカシミヤやアルパカなど、用途を洋服やストール、照明とかインテリア用品にすることで、新しく冬の需要を作ることができました。

 それから、地域で長くやっていらっしゃる方の競合にならないように、最初の5年くらい、日本でブランド展開していなかったんです。日本のバイヤーの方が来てもお断りしていました。15年経って、29か国と取引した実績があり、120店舗くらいは販路ができている。そのうちの70%がヨーロッパ、北米が15%くらいという規模になりました。

 最初に立ち上げたきっかけが、なくなりそうな伝統産業をどうにか次世代につなげたいということでした。今も変わらず幹のフィロソフィーとしてあるんですが、当時、200人以下で80歳、90歳の父親世代が最後の主力となっていたなかで、いろんな地域から有松に移住してきたり、もともと地域にいた人たちが我々に加わってくれたりして、いまでは全員で15名のスタッフが、20代、30代を中心に日々ものづくりをやっています。

 

海外だけのビジネスを展開

2023 Autumn & Winter Collection "HONESTY" より

中野 日本の大学受験に二度落ちてイギリス、ドイツに行くことになったんですね。何が幸いするかわかりませんね。

村瀬 流れ流れての15年を過ごしています。

中野 日本で競合を作らない努力をしたということに、繊細な戦略を感じます。いきなり海外だけのビジネスを展開していたんですね。

村瀬 日本で最初にブランドをやると、あの下積みの有松から出てきた田舎ブランドが東京に来ました、みたいになってしまうので。それよりはパリの有名なセレクトショップで扱われていますというところで基盤を作りました。そうすると見え方も変わってくるんです。

中野 結果として、有松全体が日本遺産になりましたね。地方創生にもつながり、地域発ビジネスが魅力的になることで、若い職人を取りこんで、有松絞を再生させていらっしゃいます。まさしく「新・ラグジュアリー」の世界観だなという印象を受けます。今日はお父様である会長の村瀬裕(ひろし)さんも来ていらっしゃいますね。家業が廃れる未来を見て息子さんを自由に海外で活動させた結果、有松絞がまさかの世界展開をすることになるとは、ドラマチックな話です。(第2回に続く)