代表的モチーフ「窓」に取り組む
新たな絵画を模索し、様々な実験に取り組んだマティス。1914年に第一次世界大戦が勃発すると、生活は大きく変化した。2人の息子ジャンとピエールは相次いで徴兵。マティス本人も兵役の志願をしたが、採用には至らなかった。息子の生還を待つ不安な気持ちと、自身が出兵できない歯がゆさ。マティスは否応なく、内と外の世界の隔たりを感じるようになる。
この時期に繰り返し登場するモチーフが「窓」だ。《コリウールのフランス窓》は第一次世界大戦勃発直後に描かれた作品。風景が広がるはずの窓の外は真っ黒に塗り込められている。フランス窓というタイトルがなければ、これが窓であるとは思えない。この絵が意味するのは、戦争が起きている外の世界との拒絶なのか。それとも内と外の世界が切り離せないひとまとまりの空間であることを示しているのか。見れば見るほど、作品の真意を見出すのが難しい。
社会的に不安定な時代ではあったが、マティスは実験精神を保ち、ラディカルな作品を多く残した。「マティス展」では、この時期に手がけた肖像画を複数鑑賞することができる。自身の長女をモデルにした《白とバラ色の頭部》を筆頭に、《グレタ・プロゾールの肖像》《オーギュスト・ペルランⅡ》と人気作が並ぶ。
作品からはキュビスムからの影響を強く感じるものの、同時に「あっ、マティスだ」と思わせる個性も存分に発揮されている。マティスならではの線と色彩。個人的にこの時期のマティス作品はひとつの頂点だと思う。
第一次世界大戦終結後の1918年、マティスはニースに移住。いわゆる「ニースの時代」が始まる。マティスはオリエンタル文化の装飾性に興味をもち、アルジェリアやモロッコへ旅行に出かけ、華やかな模様のカーペットや屏風、壁掛け、小物などを購入。これらをアトリエに配置し、ミニチュア劇場のような空間を作り上げた。
その空間でマティスは室内画、静物画、そして室内における人物画の制作に打ち込む。《赤いキュロットのオダリスク》は、フランス国家に買い上げられ公共美術館に展示された最初のマティス作品。モデルの衣装や壁の色彩の組み合わせに実験的要素が見られるが、心地よく鑑賞できる大衆性も併せ持っている。