日本の美を意識したきっかけは横光利一の死

 川端康成が多くの影響を受けた作家に横光利一がいます。1924年、川端は横光や片岡鉄兵、今東光らと雑誌『文芸時代』を創刊しました。横光がここで短編小説『頭ならびに腹』を発表したことにより、彼らは「新感覚派」と呼ばれるようになります。

横光利一(1930年代) 写真=アフロ

 1947年、横光は49歳で亡くなります。葬儀で川端は弔辞を読み、その最後を「僕は日本の山河を魂として君の後を生きてゆく」という言葉で締めくくりました。

「日本の山河」は、「日本の美」と言い換えられます。その当時はまだ、川端自身は自覚していなかったかもしれませんが、親友・横光の死によってそこに向かったのかもしれません。そしてこのことが、ノーベル賞受賞のきっかけとなったといってもよいでしょう。

 横光利一の死は、ノーベル賞受賞とともに川端にとって大きな転換となった出来事だったのです。

 

川端が求めたものとその生い立ち

 はたして川端の小説のテーマは、ほんとうに「日本の美」だったのでしょうか。

「言葉にすると実在を離れる。実在は我々の言葉の彼方にある」という川端の有名な言葉があります。すべては流れゆくもの、それをどうしたら自分で掴むことができるのか。そう川端は葛藤しました。やはり言葉しかない。しかし言葉で掴もうとしてもうまく掴めない。そんな葛藤を繰り返した作家だと、私は思います。

 そこには川端の生い立ちが大きく関係しています。川端は大阪の開業医の家に生まれ、2歳で父を、3歳で母を、ともに結核で亡くします。資産家の祖父母に引き取られますが、7歳の時に祖母も死に、祖父とふたり暮らしになります。

 祖父は病気で目が見えなくなり、言葉もあまり話せなくなっていきました。世代のギャップもあったのでしょう、祖父が何を伝えようとしているのか、少年の川端にはわからないことが多かったのです。

 しかし、そんな祖父に頼らないと自分は生きていけないんだ。なんとか言葉で祖父との空白を埋めなくては。言葉を掴まえようとするけれど、何を掴まえていいのかすら、わからない・・・。ずっとそんな思いを抱いて育ちました。そして小説もそんな思いで書いてきました。ところがノーベル賞受賞によって、あなたの小説テーマは「日本の美」なんだと評価されたことにより、初めて「日本の美」を意識したのでした。