山代が陶芸と美食の出発点
魯山人は陶芸家・美食家、あるいは芸術プロデューサーというイメージが強いと思いますが、彼の原点は、「書」でした。
陶芸に進むきっかけとなったのが、燕台から初代須田菁華を紹介されたことでした。「菁華」の刻字(篆刻)した看板を完成させた魯山人は、その見事な出来映えから、窯の仕事場に入ることを菁華から許されます。初めて絵付けを体験した際は、素焼きの上で筆が思うように滑らず、困惑したといいます。しかし、この日から作陶に魅せられ、刻字した看板などを彫るかたわら菁華窯に通い、釉薬の調合、窯の焚き方といった作陶の基礎を菁華より学びました。
こうして山代が陶芸家・魯山人の出発点になったのでした。菁華は魯山人の大胆で正確な筆運びに驚き、陶芸の才能を見抜いたそうです。
また、魯山人は、山代から少し内陸部にある「山中温泉」の「山中塗」と出合ったことで、その後の漆芸作品に生かしています。
そして、吉野屋の別荘で過ごす魯山人が楽しみにしていたもののひとつに、加賀の味覚がありました。美味しいものには人一倍貪欲であった魯山人が、この地で知った食材には、海鼠(なまこ)の内臓であるコノワタ、卵巣のコノコ、卵巣を干したクチコ、香箱蟹、ずわい蟹、温泉玉子、真鱈のちり鍋、鴨鍋、スッポン、大聖寺味噌、「吉野屋」が漬けた自家製の沢庵、早春の蕨などがあります。とくにコノコの美味しさに驚嘆し、高価なコノコを三桶も平らげ、燕台を唖然とさせたというエピソードも残っています。
山代滞在中の年末から新年にかけ、一時金沢に戻った魯山人は、料亭「山の尾」の主人・太田多吉より、加賀料理と懐石料理を学びます。後に東京の赤坂で会員制の高級料亭「星岡茶寮」を開設し、自ら顧問兼料理長になった魯山人は、その食膳に美食の最たるものとして、コノコのほか「吉野屋」が漬けた自家製の沢庵を取り寄せては加えていました。
また、魯山人は傍若無人というイメージがありますが、小僧さんの着物が汚れていたら洗ってやったりするような、とても思いやりに満ちた人柄だったそうです。料理のこだわりが強かったのも、一番美味しい状態で食べてもらいたいという思いやりからだろうと、正木館長は言います。
旦那衆との交流が育んだ魯山人の美意識
山代で看板を彫っていた魯山人は、夜が更けると仕出し屋から運ばれる料理に舌鼓を打ち、時には旦那衆(山代の方言では、「旦那」のことを「おあんさん」と言います)たちと書や美術、骨董について語らいました。江戸時代、総湯のまわりには加賀藩から湯を引く権利を許されていた旅館が18軒あり、これらの老舗旅館は財力がありました。旦那衆は古美術が好きだったり、お茶を嗜んだり、謡を楽しんだりと、粋人ばかりでした。美味しいものを食べながら歓談し、いつしか別荘は山代の文化サロンとなります。
旦那衆と語らいのなかで初めての作陶や、料理の手ほどきを受け、魯山人は自身の美意識を磨いていったのではないでしょうか。旅館を営んでいた正木館長の祖父も旦那衆のひとりで、魯山人が祖父といっしょに料理を作る姿を小学生の時に見たそうです。
後年、「北陸に足を向けては寝られない」と言っていたという魯山人。山代温泉やこの地での出会いは、のちの魯山人に多大な影響を与えたことがうかがえます。最晩年まで何度も山代を訪ねたといいます。