書・篆刻・絵画・彫刻、陶芸そして料理・・・。生涯をかけて美を追求し、極めた稀代の芸術家・北大路魯山人は、若き日の一時期、山代に滞在しました。その庵が「魯山人寓居跡 いろは草庵」として公開されています。正木秀侃館長にお話をお聞きして、当時の魯山人と山代の関わりについてご紹介します。
文=山口 謠司 取材協力=春燈社(小西眞由美) 写真=山代温泉観光協会
魯山人が山代に来た理由
若き魯山人は書家の岡本可亭(岡本一平の父であり岡本太郎の祖父)の内弟子となって書を学びました。そののち、「福田大観」と号して看板を彫ったり書を書いたりしながら、食客として日本各地の美術愛好家のところを転々とします。そんななか、福井の鯖江の豪商・窪田朴了の紹介で出会ったのが、金沢の漢学者・細野燕台(えんたい)でした。燕台の家に世話になっている間、魯山人は料理を手伝いました。また燕台が自分で料理を作り、九谷焼の器に盛るのを見て、自分でもそうしてみたいと思ったそうです。
書や画に長けた知識人だった燕台は、魯山人の才能に惚れ込み、三人の仲間に引き合わせました。それが山代温泉の「吉野屋」旅館の主人・吉野治郎、九谷焼の陶芸家・須田菁華(せいか)、そして金沢の料亭「山の尾」の主人・太田多吉でした。ここで魯山人に看板を彫らせる話がまとまり、吉野治郎は仕事部屋として、自らの「別荘」を提供することになったといわれています。その別荘というのがこの「いろは草庵」です。
1915(大正4)年の秋から約半年間、山代温泉に滞在することになった魯山人は、「吉野屋」「須田菁華窯」などの看板をいくつも彫りました。今も「九谷焼窯元 須田菁華」の入り口には大観時代の篆刻看板が掲げられています。また、老舗旅館などにも数多くの作品が残っています。