1664トンのなかで、わずか4kg弱の究極の日本茶。そのほんの一掴みの茶葉を生み出し、世界の頂点を極めようと切磋琢磨する人たちがいる。フランスのファンが、畑作業をしたいとやってくる茶園がある……いまだ知られざる日本茶の最高峰、その現在に出会う。

日本最高の玉露園

11月が終わろうとしている、ある日の午後、僕は宮原 義昭さんの茶畑にいた。ここは、日本最高の茶畑だ。

福岡県八女市星野村。

山をクルマで少し登ったところに、やや開けた集落がある。そこに建つ、昭和テイストの控え目な民家の一軒。その庭先は、急勾配気味に下っていて、そこで、遅い冬の訪れをのんびりと待つ、樹高1.5メートルほどの木々が、宮原さんのチャノキだ。

「もう年じゃけ、ほんとはもうちょっと手入れせにゃいかんけど、そんなに行き届いとらんから……」

恥ずかしい、とはにかみながら、宮原さんは『すまき』という、八女のお茶に欠かせない道具を担いできて、見せてくれた。

この家庭菜園みたいにこぢんまりした茶園の前には、不釣り合いなほどに立派な白い柱が2本、立っていて、茶園をかわすように影を落としている。太陽は右手のほうにあるから、畑は南を向いているのだろう。

そしてこの白い柱こそが、ここが日本最高の茶畑であることの証明だ。

宮原さん本人は、そういうことを言いたがらないので代弁すると、この茶園の茶葉は、消費者が購入する場合、8gで1万円といった、びっくりするような価格になる。

ワインの世界でいえばグラン・クリュ? それ以上かもしれない。

なぜそんな価格になるかというと、ここは、日本茶でもっとも権威ある品評会「全国茶品評会出品茶審査会」において、玉露部門で最高賞である「農林水産大臣賞」を受賞した茶を産出した畑だから。

しかもこの賞、1回でも受賞すればもう日本茶業界の大スターみたいな賞なのだけれど、宮原さんとこの畑の茶葉は、それを3回も受賞している。

白い柱は、この受賞者に与えられるもので、宮原さんは2本しか立てていないけれど、実際は3本あるはず。「そんな人は普通いないんですよ」と同業者たちは言うけれど、宮原さんは、八女には、かつてこれを一人で5本獲得した人物もいるのだ、と言うのだった。

八女の玉露が世界トップシェフの価値観を変える

八女市の中山間地(旧八女郡)は、実際、日本茶のグラン・クリュと言って過言ではない。というのは、八女の茶はにGI認定を受けていて、GIは世界的に言えば、AOCとかAOPとかDOCGといったものと近く、特定の生産方法に則ってつくられた農業製品を保護する制度。八女の場合、それを「八女伝統本玉露」という、八女の茶の中でも最上級の茶で2015年12月22日に取得しているからだ。そして、このGIに適合した玉露の生産地のなかでも、最良の産地として評価されるのが星野村なのだ。

宮原さんの畑で宮原さんが生み出す茶は、さらにその中で一番なのだから、それってつまり、ロマネ・コンティみたいなもの? いずれにしてもこの茶畑は特別中の特別で、そこで茶を育てる宮原さんは生ける伝説といっていいだろう。

取材時はすでに、収穫は終わっていた宮原さんの茶園。遅い場合も、八女の玉露に使うのは二番茶までなので、7月ごろには収穫が終わる。収穫後も葉の付け根から新たな葉と枝になる芽が出てくるが、秋から冬にかけてはチャノキの頭を剪定する

八女伝統本玉露は、普通の日本茶ではない。うっかり飲んだら、かなり驚くに違いない。

それは僕の個人的な意見ではあるけれど、八女伝統本玉露は事実、世界的に尊敬されているものだ。例えば、かのジョエル・ロブションさんが八女茶を評価した、という逸話は有名だ。

「ジョエル・ロブションさんは、日本茶のことはむしろ嫌いだったんですよ」

そう教えてくれたのは福岡県茶商工業協同組合 理事長の吉泉 正幸さん。

「日本茶は渋みが強くて、飲みたくない、とおっしゃっていた。そのロブションさんが、八女伝統本玉露を飲んだ時に、これは世界に類を見ない嗜好だ、と感銘を受けられ、褒めてくださって。それで、ご自身のキャリアの最後に、とおもったのかもしれません、八女茶とのペアリングを始めてくださったんです」

福岡県茶商工業協同組合というのは、福岡県の茶商による組合組織。宮原さんのような茶の生産者ではなく、生産者がつくった茶を買って、我々消費者がお店で買う茶葉として仕上げる企業と仕上げた茶を販売する企業、合計72社から成る。吉泉さんはその組合の理事長職にあり、同時に八女茶を製造販売する店「吉泉園」の4代目社長でもある。

ゆえに、福岡の茶を愛し、とりわけ、トップブランドである八女茶に特別な思い入れがある。そして、八女伝統本玉露こそ、世界最高の茶である、と確信している。

なぜ八女伝統本玉露をつくるのか?

八女伝統本玉露というのは非常に希少な茶だ。

なにせ、先の宮原さんも品評会に出すレベル、トップクラスの八女伝統本玉露として一年につくれるのは「荒茶」という、茶葉を摘んでから乾燥させた茶で4kg弱が精一杯。もちろん、この生ける伝説は、現在、御年70を越えているから、すでに体力に任せてがむしゃらに働くような人生の段階ではない、という理由もあるけれど、八女伝統本玉露の生産は、ひたすらに手間を要するのだ。

荒茶をつくるには、生の茶葉を蒸気で蒸す。この工程で、およそ8割の水分が失われる。つまり4kgの荒茶をつくるのに必要な生の茶葉は約20kg。

この20kgが大変なのだ。チャノキは、機械で管理しやすい形(ぼうず畑と呼ばれる)に剪定されたものではなく、自然のチャノキ姿を生かした「自然仕立て」で栽培している必要がある。そして、新芽が出る頃に、茶園全体を「すまき」という覆いで覆う必要がある。

「すまき」は稲ワラを独特に編んだもので、これ自体も、良質なワラの確保から始まる手間のかかる職人の手仕事の産物なのだけれど、これを茶園にかぶせ、遮光率を調整するのは、すべて栽培家の手作業。

「すまき」には独特の編み方がある。これができる職人も現在は少ない

そして、新芽が4、5枚、開いたところで、枝の上の方にできる1つの芯と2枚の葉だけを手で摘んだものが八女伝統本玉露を名乗る資格がある。摘む作業だけで10アール(1000平方メートル)あたり400時間もの労働になるという。(機械摘みであれば10時間ほどで済む)

八女伝統本玉露をつくれる栽培家は、およそ2000人の八女茶生産家のうち100人程度しかおらず、八女茶全体の荒茶生産量1664トンのうち、GIにかなう八女伝統本玉露で生産量は5.7トン程度。この時点で取引価格は1kg1万3千円以上になる。さらにここからもクラス分けがあり、ロブション氏が感動し、ペアリングに使った上位クラス、先の品評会に出されるレベルになると、およそ200kg程度しか生産されない。

つまり、である。これでは破格の高級品とはいえ、いくらなんでも希少すぎて、商売にならないのは自明だ。事実、宮原さんも、自宅の前の畑と、その他、少しの茶園をもつものの、本業は線香屋である。

それでどうして、八女はGIまで取り、八女伝統本玉露をつくり続けるのか? と率直に聞いてみると、吉泉さんは

「これは八女でしかつくれないからだ」

と答えた。

「たとえば、八女伝統本玉露は「すまき」という稲ワラを編んだ覆いを茶園のチャノキの上にかぶせて、日光を遮断します。これは八女でしかやっていません。他産地の玉露も、遮光はしますが、たとえば、八女と品評会で常に1位を争う、京都も、ほかの玉露の産地も、みんな、化学繊維の覆いを2枚がけで使います。化学繊維のものは、目が均質で、日光を完全に遮断するのですが、手作りで自然仕立ての「すまき」では、自然光の木漏れ日が、程よい光合成になって、特有の「覆い香」という香りを醸し出し、自然界のバクテリアの作用によって特有の甘みを作り出すのです。そして、ひとくちに「すまき」といっても、稲の生育状態が良かった年のワラかどうか、「すまき」の上に、さらに、ワラを載せて遮光をする「振りワラ」という技術もあるのですが、その塩梅によっても、味や香りは変わります」

そして、もちろん、私にとっては、八女がもっとも優れた玉露の産地なのですが……と笑顔を見せたあと

「八女と京都で比べて、どちらがいい悪いではないんです。八女伝統本玉露は八女でしかできない。そして、ロブションさんの例のように、八女の茶に感動する方がいる。そういう唯一無二のものがなければ、極端な話、わざわざ八女で茶をやらなくてもいい……」

これを次世代に繋いでいくのが、使命であり、責任だ、と吉泉さんは続けた。

その後、吉泉さんば、実際にその次世代を、ふたり、紹介してくれた。ひとりは久間 正大さん、もうひとりは城 昌史さん。このふたりは、それぞれに違った茶の生産農家だった。