2.葛藤期:自分のあり方を模索して挑戦と失敗を繰り返しつつ成長

1983年4月のダイアナ妃。巨大なピーターパン・カラーは野暮すれすれにも見えるが、不思議と強い印象を残し、ファッショントレンドを生んだ 写真=REX/アフロ

 挑戦しては失敗する、トライ・アンド・エラーを繰り返した時期。二人の王子にも恵まれたが、夫のチャールズとかねてより関係があったカミラとの「3人の結婚生活」に悩まされ、孤独を募らせ、自身の摂食障害も悪化させていく。

 この時期のダイアナ妃は、心の迷子になった自分のあり方を模索するかのように、ありとあらゆる公務ファッションに挑んでいる。保守的なコートドレスやスーツ、ワンピースから、ミリタリールックやピーターパンカラー、ジャンプスーツに至るまで。色も柄もとりとめない。素敵に決まるときもあれば、ちぐはぐに見えることもある。「ダサいファッション」に厳しいイギリスのメディアは、時に揶揄したり厳しいコメントを書いたりしたこともあったが、ダイアナ妃は批判も学びの糧として受け止め、次第に洗練されていく。

 この頃からダイアナ妃のドレスを1000着以上も手掛けているのは、キャサリン・ウォーカーである。もっとも信頼されていたデザイナーで、ダイアナ妃が亡くなったときに棺のなかで着たドレスも彼女の作品である。

 ウォーカーのほかにも多くのデザイナーを頼っている。アイルランド人のポール・コステロもその一人。私は2017年にコステロにインタビューしているのだが、その時にダイアナ妃から依頼を受けたきっかけを聞いた。

1988年、シドニーにてライフガードたちに囲まれているダイアナ妃。ドレスのデザインはポール・コステロ。写真はコステロ氏に取材した際、コステロ氏より提供されたもの

 彼が話すには、ダイアナ妃がある日、店にふらっと現れ、「ケンジントン宮殿に来てくれる?」と声をかけた。当時はまだ人種差別が露骨で、「アイルランド人が黒人の運転手の車で宮殿を訪れる」ことに守衛やスタッフは嫌な顔をした。だがダイアナ妃は人種偏見をもたずあたたかく接してくれた……。

1983年、公務として初めてオーストラリアを訪問した時に着用している白いドレスは、シンガポールのデザイナー、ベニー・オングによるもの。ダイアナの初々しさを引き立 てているが、実はこの時、「突然、深い海に放り込まれたようだった。誰も助けてくれなかった」と初めての外国訪問を振り返っている 写真=Photoshot/アフロ

 コステロはその後、ダイアナ妃がシドニーで着用することになるワンピースや、王子の送迎時に着用するテイラードジャケットなどを作っている。偏見にとらわれず、デザイナーを自分で探し、自身に合うスタイルをあらゆる可能性から模索し続けていたことが、このエピソードからもわかる。「ダイアナ妃にはガッツがあった」とコステロは振り返る。(続く)