「親子3代、同じ小学校」という京都っ子のプライド~番組小学校のはじまり

 いつの時代であっても都には外からたくさんの人が入ってくるものである。そこで都にあふれる「にわか」に対して、古参の優位性を示すために「三代続かないと江戸っ子とはいえないね」などという古典的なマウントが生まれることになる。

 それをいうなら、京都の場合では「親子3代、同じ小学校」というのが、江戸っ子ならぬ京都っ子の証といえるかもしれない。

 では、なぜ京都っ子のローカル・アイデンティティはそんなに小学校と強固に結び付けられているのだろうか。その謎を紐解くためには明治初期にさかのぼる必要がある。

 明治2年、日本で最初の小学校が京都に設立された。その前年に江戸時代よりの京都の町組が番組として再編されたばかりだったのだが、京都の小学校はこれを単位として設立されることになった。

 しかし、建築費は京都府から下賜されたものの、維持費は各番組から戸別に徴収されることになり、また用地も地元の寄付によるものが多かったという。もちろん明治という誰にも先の見えない激動の時代に、子供の教育に未来の希望を託した京都の人々の熱い思いによって実現した制度である。しかし、実際問題としてこれは各地域の住民にとって非常に大きな負担であったことも事実だ。

 つまり、この全国初の小学校設置は、番組と呼ばれた地域単位で束ねられた京都の人々にとって、まさに未来のために血を流すような思いで身銭を切る大事業だったのである。

 そして、こうした苦労のなかで誕生した京都の番組小学校は、単なる子どもたちのための教育施設にとどまらず、他地域にはない独特な空間として成長していく。

「学校のなかに町役のたまり場があり、講堂は町組の会議場になり、人民教諭の場となった。そして、行政や警察の仕事が行われる町民当地の出張所」(辻 1977)

「(京都の)小学校は新奇な知識にふれる学習の場であり、多様な交流の場であった」(荻原 2016)

 つまり番組小学校は京都の人々にとって、近代化のなかで変わりゆく新しい生活を発信する「総合庁舎」とも呼べるような場所として成長するのである。そして、番組小学校は「まちの連帯のよりどころ」(萩原,同上)としての性格を強く帯びるようになる。これが近代における京都っ子のローカル・アイデンティティの要となる番組小学校のはじまりである。

 その後の制度や街の移り変わりのなかで実際の通学区と重ならなくなっていったあとも、番組小学校時代の学区は「元学区」として人々の生活の中に受け継がれることになった。そして、その独特な役割を反映して、他の地域には見られない豪華さを誇った各小学校の校舎はそれぞれの地域のランドマークとして愛されるようになったのである。

 

美を競い合った京都の小学校建築

 たとえば建築史家たちは、京都の独特な小学校建築と出会った時の感動をこのように表現している。

「第一印象は強烈で、豪華な講堂、重厚な書院造りの和室、ゆったりとしたスロープ、驚きの連続であった」(大場 2019)

「京都の小学校は梁のハンチひとつとってもこだわったデザインが施され、鉄筋コンクリート造にもかかわらず屋根がつく校舎や、窓についても東洋風が意識されるなど、大阪や神戸の小学校とは異なって、歴史都市にふさわしいデザインが試みられていた」(川島 2015)

 アールデコ調の鉄扉と彫刻で飾られた玄関。大理石の壁にモザイクタイルが敷き詰められた玄関ホール。丸窓やロマネスク様式の柱……。

 とくに明治から戦前までに建築された京都の小学校の校舎は、まるで豪華さを競い合うように非常に贅沢で装飾的な特徴を有している。

 それはもちろん、それらの小学校が単なる教育の場にとどまらないランドマークとして地域の誇りを象徴するものであったからである。

 そして、それらの校舎の稀有な美しさと個性は、100年という時を経て、子供たちの学び舎という役目を終えた閉校後の校舎の利活用に活かされることになる。