朝廷の下級官人から幕府の重鎮へ
広元の鎌倉下向には、13人の合議制のメンバーである中原親能(1143~1208)が、深く関わっていたものと考えられている。広元と親能は兄弟だったとされる。
親能は、頼朝と長年の知り合いであった。おそらく広元は親能の推挙によって、頼朝にスカウトされたのだろう。
広元が鎌倉に下った時期は定かでないが、おそらく寿永2年(1183)末から翌元暦元年(1184)の初めにかけてだと推測されている。
頼朝の信頼も厚く、政務機関である公文所や政所が設置されると、広元は別当(長官)を歴任している。
広元は文書作成、裁判、頼朝への取次ぎ役、幕府領の経営などを担うだけでなく、自ら上洛して朝廷との交渉にあたり、外交面でも活躍した。
頼朝の死後は、北条時政や義時、政子と協調しながら、幕府を支えていく。
広元も執権だった?
執権といえば北条氏だが、広元も『尊卑分脉』では「関東執権」、『帝王編年記』では「鎌倉執権」と称されている。
広元も、執権だったのだろうか。
一般に、北条時政は源実朝が三代将軍となった建仁3年(1203)、広元と並んで政所別当となり、鎌倉幕府の初代執権に就任したといわれる。
『吾妻鏡』建仁3年10月9日条には、実朝の政所始めの儀の様子が描かれており、 儀式には広元も時政も着座していた。その儀式の流れや作法は、「執権」がすべて指示したという(「次第の故実、執権ことごとくこれを授け奉る) 。
ここでいう「執権」は時政に比定され、これをもって、時政が鎌倉幕府の初代執権であったとされる。
しかし、上杉和彦氏は、ここでいう執権を、時政と理解する必要性はないと述べている。故実の伝授は、むしろ文士の役割にふさわしいともいえ、「執権」とは広元を指す、もしくは、広元と時政の両者の立場を現したと考えることも不可能ではないという(『鎌倉幕府統治構造の研究』)。
広元を執権に数えるか否かは、議論が分れている。だが、執権であろうとなかろうと、広元が北条氏と並び立つ有力者であり、幕府において傑出した重鎮であったことは間違いあるまい。