個人の挑戦は選手全員の挑戦

岩渕の大技挑戦は成功ならず。しかし各国選手が暖かく迎える 写真=YUTAKA/アフロスポーツ

 北京の試合会場は極度の低気温のため雪面は硬いから、怪我のリスクもいつにも増して大きい。それでも、誰もなしえなかった大技に挑んだ。そのチャレンジする精神、オリジナル性を感じさせる取り組みに称賛が集まったのだ。岩渕の言葉には「私だけの挑戦かなと思っていたけど」とある。でも多くの選手が称賛する姿は、岩渕の挑戦がスノーボーダーみんなにとっての挑戦であったことを意味している。

 同じような光景は、昨夏の東京オリンピックでも観られた。スケートボードの岡本碧優が高難度の技に挑み転倒したが、試技後、海外の選手たちが駆け寄ると岡本をかついだ。暫定4位だった岡本は、表彰台を狙うことだけを考えれば、その技より低い難度を選ぶ道もあった。それでも自身の最高のパフォーマンスを志した結果を、他の選手たちは称えたのだ。それと同種の光景であったし、

 競技である以上、むろん、上位を、メダルを目指す姿勢は当然としてある。だから他の選手はライバルだ。ただそれが「競い合う」相手なのか、「対抗する」相手なのかによって、ニュアンスは異なってくる。

 競い合う相手であれば、互いのベストを尽くそうとする姿勢の先に、相手へのリスペクトもおのずと生まれてくるだろうし、称え合うことも可能だ。でも相手はただ負かすためだけにいる者でしかないと認識すれば、自身の成功以外は目に入らない。

 北京オリンピックでは、どこかゆがんだ光景も少なくはなかった。ショートトラックで、偏りのある判定から、失格になる選手と失格にならない選手とが国別に分かれる傾向があり、さまざまな国から抗議や批判が相次ぐ事態となったのは、象徴的だ。

 個のアスリートが競うのではなく、どこか国をかけて対抗するかのような、ゆがんだ形での結果のみを最優先とする思考のもとでの出来事、あるいはふるまいもあったから、なおさら際立つ印象をもたらしたのが、スノーボードの光景だった。

 それは北京オリンピックで明るさを覚えた、たしかな一場面だったし、現在の世界情勢を考えれば、なお意味を持つ出来事だった。