「発見」された日本の原風景

美山町の遠景 写真=アフロ

 しかし、潮目は変わる。美山町が変わる以上のスピードでこの国の風景が変わってしまったからである。かやぶき屋根の民家、そして美山町の体現するような山里の景色は、この国のあらゆる場所でまたたくまに消えてしまった。

 そして、人々は自分たちの社会のあまりに性急な変化に、不安や寂しさを感じ始める。新しさや豊かさを追い求めるあまり、なにか大切なものを忘れてきてしまったのではないか。そんなふうに故郷の景色を失ってしまったことに気づいた人々は、この国に残された「どこか懐かしい」風景を探し求めるようになった。そんな思いがツーリズムに反映されたのが1970年代のディスカバージャパン・キャンペーンであり、「ふるさと」ブームであった。

 そしてそのようなノスタルジアのまなざしが、美山町にかやぶきの里を見つける。

 美山町のかやぶき民家については、1960年代末から1970年代にかけて京都府教育委員会による調査などを通して学術的評価が始まっていた。しかし、その存在が1990年代に入るとマスコミにも広く取り上げられようになり、さらには国からの伝健指定を受けるに至り、本格的にツーリズムの文脈でかやぶきの里としての価値が見出されることになったのである。

 これについて前述の田中は、「開発の停滞」が奇しくも農村景観の保全に寄与したと分析している。いずれにせよ、こうしてわれわれが失ってしまった日本の原風景が美山町に「発見」されたということはいえるだろう。すべてが変わってしまったように思えるこの国で、最後まで変わらずにいてくれた場所として。

 

「周回遅れのトップランナー」は世界へ

 他のみんなが変わりゆく時代に変われなかった。むしろ変わらなかったからこそ、そのことが次の新しい時代に価値や強みとして意味を持ち始めるという現象は、いわゆる「町おこし」「村おこし」の現場では、たとえば「周回遅れのトップランナー」という言葉で語られてきたものである。そのような意味では、美山町ほどその称号にふさわしい町はほかにないのかもしれない。

「かやぶきの里は世界遺産にならないのか?」—、美山町でのフィールドワークのなかでそんな声を何度か聞いたことがある。今のところそんな予定はなさそうだが、しかし、いま美山町は世界遺産とは別の形で世界に届いたといえるだろう。

 いや、それはむしろこの切迫した危機と変革の時代において、文化遺産の価値を認められるよりも重要な意味を持つ栄誉かもしれない。称えられたのはモノではなく、それを現代まで守り続けることのできた村づくりであり、そこで評価された持続可能性がこれからの時代の生き残り方を世界に示す指針となるからである。

 かつては「時代に取り残された」と人々が呆れながら見上げた、かやぶきの屋根。それが、いま名実ともに世界に先駆けるトップランナーのシンボルとなったのである。