京都イメージの定番を超える
今回のベスト・ツーリズム・ビレッジ選定という「事件」がもつ意味を考えるにあたり、まず、美山町が京都のツーリズムにおいてどのような位置づけを占める存在であったかを確認しよう。
コロナ禍前にはオーバーツーリズムに悩まされていた京都であるが、その要因は市内中心部の世界遺産などごく限られた定番のスポットに世界中の観光客が殺到してしまうというアンバランスさにもあった。市内中心部は観光公害が叫ばれるほどの観光客の激増に圧倒される一方、じつは中心部から離れたスポットなどでは逆に観光客の減少が問題となっていたのだ。そのため、これまでには広く知られていなかった京都の見どころを紹介し、中心部や定番スポットに集中しすぎる観光客を分散させることは京都観光の大きな課題のひとつであった。
もちろんこれは無尽蔵とも思える歴史的文化資源を有する京都「圏」のポテンシャルをより効果的に活用しようとするものであるが、そのような取り組みのひとつが、京都市外の農山漁村の見どころをPRする「海の京都、森の京都、お茶の京都」キャンペーンであった。そして、この「森の京都」の中心的スポットが美山町だったのである。
つまり日本の原風景と謳われる山あいのかやぶき里のイメージは、「京都といえば、舞妓さんとお寺」というような固定化されてしまった京都イメージを拡大するシンボルであったのだ。
かやぶき屋根は貧困の象徴だった?
しかし、このような美山町への、そしてかやぶきの里への評価は何も以前からひろく共有されていたものではない。たとえば京都の著名な寺社の数々は、戦乱や近代化の荒波の中で揺れ動きながらも多くの人々の崇敬の念や憧れのまなざしを引き寄せ続けてきた長い歴史をもつものである。しかし、一方で美山町のかやぶきの里へ人々が寄せる思いは少々複雑な経緯をたどる。
それについて、美山町における地域開発と近代化を研究する社会学者・田中滋は、かやぶきの里の景観が文化遺産として重要な価値をもつものであると国から認められたこと(1993年に重要伝統的建造物群保存地区に指定)、そしてそれを見るために多くの観光客が訪れるようになったことが、当時の地元の人々にとってどのような意味を持つ出来事であったのかについて以下のように述べている。
地元の人にとってはまさに貧困を象徴する恥ずかしい限りのものであった粗末な「草屋」葺きの家がとつぜんその文化的価値を認められることになったのである。(田中滋編著『都市の憧れ、山村の戸惑い —京都府美山町という「夢」』)
つまり、現在では日本の原風景を象徴する文化遺産として高く評価され、国内外の多くの観光客を呼び寄せているかやぶき屋根の家々は、かつては貧しさの象徴であったのである。
戦後復興、そして高度経済成長がもたらす豊かさの波が近代化として都市のみならず農村に及び、その景色を塗り替えていった頃。農業の近代化に合わせて田んぼは四角に整備され、家々の屋根はか