京都への旅は大人への旅

 どんな場所にもそれぞれの意味があり、どんな旅にもそれぞれの意味がある。たとえば、現在、この国の人々にとって京都旅行がどのような意味を持つものかを象徴するもののひとつに、1993年の秋から現在まで続くJR東海の「そうだ 京都、行こう。」キャンペーンがあるだろう。

 そうか、「考える時間」じゃなくて、「考える場所」がなかったんだ。
― 反省するにせよ、決心するにせよ、舞台は必要です。

(「1996年 冬 八坂の塔」ウェッジ編『〈そうだ 京都、行こう。〉の20年』より)

 このコピーのように、「そうだ 京都、行こう。」キャンペーンのコンセプトはまさに「ザ・京都」という「京都のど真ん中をゆく写真」に、日々の暮らしやこれまでの人生を振り返るような内省的なメッセージを織り込むものであり、そこで打ち出されてきたのはある種の自己啓発や自己研鑽の旅であった。

 背筋を伸ばして成熟した文化に触れる時間や、歴史と静寂のなかで自分の人生を振り返る時間。いずれにせよ京都旅行で過ごす時間は、いつもより少し背伸びをして「大人になるための時間」なのである。

 それゆえに「せっかくなら、オシャレしていきたい」というケンジの「憧れ」なのだ。

 

ふたりが大人になるために

 では、シロさんはなぜケンジを京都旅行に誘ったのだろうか。そこにはある切実な理由があった。何よりも長年連れ添った恋人を傷つけなくてはいけなかったからである。

 彼はどうしても東京では切り出せなかった告白を抱えていた。それはふたりが人生のパートナーとして歩んでいくためにはどうしても避けて通れない告白であり、恋人をひどく傷つけることにもなるであろう一歩を踏み出すには、背中を押して覚悟を決めさせてくれる舞台が必要であった。そのためにシロさんはわざわざ450キロもの距離を越えて、ケンジを「憧れ」の京都にまで連れ出したのだ。まさに「反省するにせよ、決心するにせよ、舞台は必要」ということである。

 二人が暮らす街ではどうしても切り出せなかった事実を京都で告げ、シロさんは恋人に申し訳ないと頭を下げる。歳をとるとロマンスは二人きりだけのものではなくなっていく。自分の人生のこと、自分が選んだ人のこと、自分を生み育ててくれた人のこと。どれも大切にしたいが、それは思っていたより簡単なことではない。そのことに、誰しもがいつか気づくことになる。そして、その軋みが優しい人々を傷つける。

 そんな大人の事情を描くこの物語は、「大人になるための時間」を求めて旅人がやってくる街の、ほろ苦くも、折り目正しく端正な夜から始まることになる。

 もともと旅は人を成長させるための通過儀礼である。日常とは異なる場所と時間のなかで傷つき、そしてその傷を乗り越えることで、人を少しだけ大人にさせる装置である。

「ああ、おれたち歳をとったな」 

 シロさんが感慨深げにつぶやくそんなセリフに象徴されるように、この映画はふたりが幾つかの季節をともに過ごしながら大人になってゆく物語である。そのような意味では、まさしく彼らの京都旅行は、ふたりが次のステージへと進むための大人の修学旅行のようなものだったのだろう。

 映画では、このあと、京都旅行の夜にふたりが共有したやるせなさや憤りを、東京の日常のなかでそれぞれがゆっくりと自分のものとしていく過程が丁寧に描かれる。聞き分けよく飲み込むだけでなく、きちんと傷つき、そしてきちんと怒ることも大人の仕事なのだ。これもまた二人が学んだことである。

©2021 劇場版「きのう何食べた?」製作委員会 ©よしながふみ/講談社