また、プラハ城の旧王宮には、最後で最大の宗教戦争といわれる三十年戦争(1618~1648)のきっかけとなった「プラハ窓外放出事件」が起きた部屋が残っている。

 1617年に、敬虔なカトリック教徒であるハプスブルク家のフェルディナント(後の神聖ローマ皇帝フェルディナント2世)がボヘミア王となると、プロテスタント教徒への締め付けが厳しくなっていた。ボヘミアのプロテスタント貴族たちはこれに反抗し、王の政務官等を、プラハ城の窓から放り投げた。この「プラハ窓外放出事件」がきっかけとなって、ヨーロッパ中を巻き込む三十年戦争が勃発した。

 ドイツの発展を100年遅らせたといわれる三十年戦争は、プラハ城から始まったのだ。

 

カフカの仕事部屋があった城

 プラハ城の人気スポットの一つに、「黄金の小路」がある。

 黄金の小路にはカラフルな小さな家が建ち並び、メルヘンの世界のようだ。現在では多くの家がみやげ物店になっており、ショッピングも楽しめる。

 黄金の小路の名称は、魔術や占星術に魅せられた16世紀末のボヘミア王ルドルフ2世(1552~1612)が、この小路の家のどこかに錬金術師を住まわせ、不老不死の秘薬を作らせていたという言い伝えに由来するとも、金細工職人が住んでいたからともいわれる。

 この小路の家を、一時期、仕事部屋として借りていた世界的に有名な作家がいる。その作家とは、『変身』で知られるフランツ・カフカ(1883~1924)だ。

 カフカが借りていたのは、入口に「22」の番号が降られた水色の家である。カフカは1916年の11月からこの家に通い、1917年に結核に罹り、1924年6月に40歳で、この世を去った。カフカがこの小路に通った期間は一年にも満たなかったが、カフカの仕事部屋であった家には、絶えることなく観光客が訪れ、黄金の小路の中で一番の人気を誇っている。

黄金の小路。一番左がカフカの借りていた家 写真=Picture Alliance/アフロ

 

プラハの「奇跡」

 最後に、死後もなお、プラハを守り続ける二人の王をご紹介しよう。

 一人目は、チェコの伝説の王ブルンツヴィークである。

 ブルンツヴィーク王は冒険の旅に出かけ、黄金でできた魔法の剣を盗んで、ボヘミアに戻った。その魔法の剣は、持ち上げただけで敵の首を吹き飛ばすという。

 この魔法の剣が保管されたのが、プラハ城だとされる。伝説によれば、魔法の剣は、のちにカレル橋の柱に埋められた。ブルンツヴィーク王は、プラハの危機には、この魔法の剣を振るって敵を撃退し、プラハを救うという。

 もう一人は、聖ヴァーツラフ(ヴァーツラフ1世)である。

 聖ヴァーツラフ(910頃~929)とは、ボヘミアのプシェミスル朝草創期の君主で、先述したプラハ城を建設したとされるボジヴォイの孫にあたる。

 ボヘミアのキリスト教化に努めたが、弟のボレスラフ1世によって、暗殺されてしまう。死後は、キリスト教化の功により教会から聖者に列せられ、ボヘミアの守護聖人として、熱烈に崇められるようになった。

 聖ヴァーツラフは、プラハ城ともゆかりが深い。

 聖ヴァーツラフは、ドイツのザクセン地方の聖人であるファイト(チェコ語でヴィート)の円形教会(ロトゥンダ)を建てた。これが、先に述べたプラハ城の聖ヴィート大聖堂の前身である。聖ヴィート大聖堂内には、半貴石に彩られた聖ヴァーツラフ礼拝堂が建てられ、聖ヴァーツラフの遺物が納められている。

 この聖ヴァーツラフにも、プラハで戦いが巻き起これば蘇り、白馬にまたがって、救援に駆けつけるという伝説がある。

 プラハは、三十年戦争、第一次世界大戦、第二次世界大戦など、幾度も大きな戦乱に巻き込まれてきた。1968年にはソ連軍の戦車がプラハに送り込まれ、チェコスロヴァキアの自由化政策「プラハの春」が打ち砕かれている。

 それでも、二人の王に守られたプラハの街は破壊を逃れ、中世ヨーロッパの街並みが完璧に残り、全盛期の華やかさを今にとどめている。人はそれを「奇跡」と呼ぶ。二人の王の加護なのだろうか。